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小説特殊慰安施設協会#37/最初の冬

敗戦後、最初の冬が始まっていた。深刻な食糧不足が各地で表面化し始めていた。その上この年は冷夏だった。冷害による凶作が乗り重なった。
 10月29日の新聞には「政府から配給だけでは栄養失調で死亡する」という記事まで掲載された。 飢えは全ての思考を停止させる。絶望へ直結する・・仕事を求めて、家族のために、多くのごく普通の女性たちが、このR.A.A.がばら撒く「希望」の許に馳せ参じたのである。この時期には、娼妓たちの応募はほぼゼロになっていた。R.A.A.に蔓延する「毒」を知る者は、寄り付かなくなっていたのだ。
 その一般の婦女子に対応したのは、慰安部の太田とキャバレー部の山崎だった。

応募してきた女性は、先ず2階の控え室に入れられる。そこで経歴書を書かせられる。無筆な人は、そのまま慰安部の大田が対応する。経歴書に添えられた希望職種の欄にあるダンサーと書かれている場合は、キャバレー部の山崎が応対する。経験があれば即採用。容姿端麗の場合は、仮採用とした。それでも募集者数から言えば1/10にも満たない。大半は「社員」として慰安部に回された。

担当した慰安部の大田は、彼が雇用した女性が殆ど全員数週間で性病に感染し、店を追い出され提携している吉原病院へ送られていることを熟知していた。

建前では全員完治するまで会社が対応することになっていたが、実際は通院の意思は感染した本人に任せられており、多くの女性はそのまま姿を消している。「最低だが、最悪ではない。俺は仕事を作る」と会議で悲痛な声を上げた大田だったが、衣食を求めて訪ねてくる女性たちが、病気持ちにされたうえに数週間で追い出されるようになると、その現実に押し潰された。無口になり、面接態度も極端に無愛想になった。
「オレは女衒でさえない・・悪魔だ。」
仕事が終わると、机に座ったまま下を向いて、何度も何度もそう呟くようになった。そして11月のはじめ、突然出社しなくなった。辞任届けが郵送で送られてきた。

この大田の戦線離脱は大きな衝撃をR.A.A.の社員たちに与えた。特に慰安部は大きく揺らいだ。程度の差はあれ慰安部全員が大田と同じ思いを抱いていたからだ。何人かの社員が大田の後を追って辞職した。辞職しても他の仕事が見つかるわけはない。それでも我慢できなくて辞めていく。そんな社員に高松は苛立ちをぶつけた。
「何を綺麗ごとを言ってるんだ。お前らがいなくても後釜はすぐに埋まるんだ。仕事はみんな欲しがってるんだ。嫌ならトットといなくなれ!
だいいち、何のためにオレがアメちゃんへ日参して特効薬を分けてもらってると思ってるんだ。全部うちの女子社員のためだろうが。渋るアメちゃんにペコペコ頭下げて色々貢物してまで、薬を貰って社員に無料で配布してるんだろうが。女子社員からは一銭も貰ってないぞ。すべて会社もちだぞ!なにが悪魔だ。そんなことした淫売宿のオヤジが何処にいる?あいつらはみんな花柳病になった女は簀巻きにして大川に捨ててるだぞ。薬配って、病院作って面倒まで見てる廓が何処にいる!!ウチはまっとうな会社なんだぞ!」

高松が「特効薬」と言ったのはペニシリンのことである。
たしかにペニシリンは特効薬だった。これを投与すると、性病に罹患した女たちはたちどころに治癒した。

発明したのは英国オックスフォードのハワード・フローリーとエルンスト・ポリス・チェーンの二人である。しかしペニシリンは単離が極めて難しい。その技術が確立するまで12年を要した。
 彼らは単離の実験成功後すぐにロックフェラー財団とアンドリュー・J・モイヤーの支援を受けて英国を離れ、アメリカへ移っている。二人の研究の資金を潤沢に出せるのは、この二者だけだったからだ。したがってペニシリンは、製造法も特許もすべてアメリカ/ロックフェラー財団が占有するものになっていた。

アメリカは第二次大戦参戦と同時に、米兵の防疫用としてこの夢の新薬ペニシリンを採用している。兵士には必ずこれを携帯させた。そして前線病院でも、これをふんだんに使用した。
海外出征の場合、兵士は敵兵と戦うと同時に、様々な未知の病原菌とも戦うことになる。特に南方戦線はそうだ。日本軍においても、兵士たちは現地で感染した病苦に悩まされ続けている。アメリカ軍は違った。当時、ペニシリンに命を救われた米兵士は非常に多かったのだ。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました