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葛西城東まぼろし散歩#29/市川荷風式#05

京成八幡駅は小さい駅だが急行は停まる。「大野家」の帰り、駅まで歩いていたら嫁さんが荷風のイラストが入ったポスターをみた。
「荷風ノ散歩道?商美会ロード??」
「ん。地元の商店会だな。京成八幡商美会というらしい」
「この近くに荷風さんの家があったの?」
「ん・すぐそこだ」僕が後ろ手に指差した。
「寄らないの?」
「寄らない。今は普通の住居だ。暮らしいている方もいる。以前、場所は確認したよ。写真は撮らなかった」
「普通の家として、普通に使われているの?」
「そうだ。」
「プレートとかないの?パリとか・・あるでしょ」
「ない。石と真鍮で出来た街と、紙と木で出来た街の違いだ。その違いは、住む者の気質にもある」
「なるほどね」
「旧住所は『八幡町4-1228』新住所は『八幡3-25-8』だ。まったくの一般民家だ。観光気分でさ迷うべきところではない。
市川市菅野から此処へ新居を構えたのは昭和32年。荷風は此処で逝った。家屋は養子だった永井永光氏が継いだ」
「お子さんはいなかったの?」
「ん、永光を養子として迎えたのは、まだ麻布に屋敷が有った頃だ。永光は荷風の従兄弟・大島一雄(杵屋五叟)の次男だ。彼と荷風との話は「父・荷風」に詳しいよ」
「書斎にある?」
「ん。ある」


昭和34年4月30日。荷風はこの家で孤独死した。発見者は身の回りの世話をしてくれていた福田とよさん。死因は胃潰瘍による心臓麻痺だった。とよさんからの連絡で一番早く駆けつけたのは永光の実母「大島八重」さんだった。
京成八幡駅の北側で八幡小学校の裏手というと良いかもしれない。玄関を入ると、三畳、四畳半、六畳と部屋が東西に並んでいて、裏手に台所と便所があったようだ。

朝日新聞夕/昭和34年4月30日に載った死亡記事を引用する。
「永井荷風氏が急死 【市川】千葉県市川市八幡町四ノ三二八に住む芸術院会員、作家永井荷風氏(やよ)が、三十日急死しているのを朝八時ごろ同家にきた通いの手伝い婦、同市菅野町五ノ三一子五、福田とよさん(73)がみつけ、付近の佐藤優剛医師に知らせた。口から血をひどくしいているので胃カイヨウの悪化ではないか佐藤医師は一応診断したが、大事をとって市川署に届け、検視を求めた結果、医師の診断通りで、死亡は午前零時ごろと推定された。遺体は奥の居間の床の上に、南向きにうつ伏せになり、古びた紺背広、こげ茶のズボンをはき、茶のマフラーをかぶったまま絶息しており、ふだんに持ち歩いていた預金通帳や現金など財産を入れたつりさげバッグが床のそばに置かれてあった。
福田さんの話では、永井さんはこの一月ばかり身体の調子が悪いようで、外出はせず、食事にだけときどきでているようだったが、こうにわかに亡くなるとは思われなかったといっている。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました