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熊野結縁#07/一言主神#02

「タカマガハラから来た」と自称する一族が、日本列島最初の統一王朝になった。なぜなれたのか?
大きな要素が二つある。そのひとつは近畿地区の平野部の大きさである。九州/中国地方/東海地区を比べても、その作付け可能面積は圧倒的に大きい。自然生産量も列島内で最大なものだったはずだ。そしてもう一つは先進技術である。大半は華人が産み出したものだ。彼らは一歩先んじて、これらの先進技術を保持していた。後発の強みもあるが、渡来後も弛まなく新技術が持ち込めるルートを持っていたのではないか・・僕はそう考えてしまう。
そこに外戚である葛城氏の影を感じてしまう。
もちろん史書はない。あるのは記紀だけだ。ほかの史書は無くなっている。僕らは書紀にある「曰一書」には出会えないが、短い文面から記紀の背景はそれとなく覗い知ることはできる。そしてその印象を考古学的な発掘物で補うしかない。一次資料が圧倒的に僅小の場合は、それしか方法はない。

葛城氏は、奈良県御所市掖上から葛城市あたりまでを自領としていた。記紀には、襲津彦/葦田宿禰/玉田宿禰/円大臣の名前がある。襲津彦の娘である磐之媛は仁徳天皇の皇后である。履中/反正/允恭という三天皇の母でもある。葦田宿禰の娘、黒媛は履中妃で顕宗/仁賢天皇の祖母にあたる。円大臣の娘、韓媛は雄略天皇の妃で清寧天皇の母である。葦田宿禰の子・蟻臣の娘、荑媛は顕宗・仁賢の母である。
外戚でありながら葛城氏が圧倒的な勢力をタカマガハラ王朝の中で持っていたことは、姻戚関係からだけでも伺いしれよう。
なぜそれほど強い吸引力を持っていたのか?キーワードは「日本書紀」神功62年条にある。襲津彦は、タカマガハラ王朝と朝鮮半島の諸国との軍事的経済的な窓口として動いていることが書かれている。そして大量の技術者を日本へ誘致しているのだ。襲津彦が支配地としていたと伝えられる御所市名柄のすぐ南に南郷遺跡群は無数の半島からの伝来物と思われる出土品が出ているので、史実だろう。

僕はこの葛城氏と紀氏のあいだに、一本の大きな線を引きたくなる。それは紀ノ川だ。
当時、大陸や半島からもたらされる文物も人物も、必ず瀬戸内海を抜けて難波か紀水門に届けられた。ここに渡来人による交易センターが早くから成立していたのである。そして紀水門から中央政府奈良までの間に葛城を筆頭とする渡来系の豪族が並んでいた。いま僕らはその残滓を沢山の韓品の出土する古墳群から伺い知れるのだ。

紀氏と葛城氏は絶妙なフットワークで、中央政権へ大陸と半島にある最新技術と技術者を送り込んでいたに違いない。
五條市で吉野川に架かる五條大川橋の上で、僕が幻視するのはコレだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました