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堀留日本橋まぼろし散歩#24/雨の日は小網町を散歩しよう

小網神社に寄った。日本橋図書館の帰りだ。
小網町は植草甚一先生の生家があった。木綿問屋だったそうだ。関東大震災で焼け出されたという話を先生がされてたなあ。どのあたりに有ったのか・・見当もつかない。東華小学校に通ったそうだ。東華小学校は十思小学校と合併して、今は日本橋小学校になっている。この辺りを歩くと、いつも先生のことを思い出す。先生の云う「大正式散歩」ね。

先生を引用する。気恥ずかしいけど・・
『とにかく散歩について一枚かけといわれたあとで、三時間ばかり考えたけれど、つまらないことしか頭に浮かんでこない。めんどくさいなあ、そのうちいい知恵が急に出てくるだろう。そう思ったけれど忘れてしまい、気がついたら締切になっている。そのとき急に「大正式散歩」という言葉を使っ
たら四百字でも書けそうな気がした。 こいつでいこう。
「大正式散歩」だなんて変な言いかたを思いついたのも、きっかけは谷崎潤一郎のごく初期の短編「少年」だった。ぼくはこの短編が大すきで昔からずっと忘れることができない。というのも潤一郎は人形町の裏をタテに通っている蠣殻町二丁目十四番地で生まれ、学校は阪本小学校だったが、「少年」には蠣殻町や人形町が出てくるからなのである。』

谷崎は1886年(明治19年)7月24日生まれである。植草先生は1908年(明治41年)8月8日だから、ほぼ二回り上。親子ほど年は離れている。同じ里の先達ながら先生の谷崎観は醒めている。
耽美派と綺麗な言葉で言われる作家だが、その本性にある粘液質な歪みを先生は好まなかったのかもしれない。谷崎の才能をポーと重ねながら、どこかその言葉は冷たい。

『ことによると谷崎潤一郎のは「明治式散歩」だったかもしれない。 「細雪」なんか、とてもノロノロした書きっぷりなので「大正式散歩」 のぼくでも、おしまいまで読めなかった。最近は歩きかたが速くなってきたから「終末的散歩」と呼んでいいだろう。いずれにしろこの半世紀に都会の人間の歩くペースがどんどん早くなってきたのはたしかだ。ところがぼくときたら相変らず五十年前のペースで歩くのが癖になっている。友だちと一緒に歩いていて、ちょっと離れたとき気がついて見ると、すこし向こうのほうで立ったまま、こっちが行くのを待っていてくれる。いいかげんイヤになってしまうだろうなあ。それでなるべく一人ぼっちで歩くことにしたんだ。』
と、すぐさま自分の世界に戻ってしまう。
「細雪」なンぞ、まどろっこしくて最後までよめたもンじゃない・・と言いきってしまうとこが凄い。

谷崎は生涯、浜町界隈の情念を背負って生きたが、植草先生は洋画に出会うことで、水飴のようにまとわり付く町に香り立つ愛執から引き剝がれられたのかもしれない。先生の話の中に時折出てくる水天館は、水天宮の傍らにあった映画館だった。早稲田を中退したころ、今川小路「銀映座」の主任助手をして、それから東宝に入社している。1935年だから27才だね。ユニバーサル映画の字幕翻訳なんかも手掛けてたそうだ。ところで、淀川長治先生が大阪から東京のユナイテッド・アーティスツへ転勤になったのは1938年。しかしアメリカとの戦争が始まっちまったンでUA社は閉鎖。淀川先生は東宝に移籍されて、それからずっと植草先生の上司だった。聞くところによるとかなり怖い上司だったようだ。・・ンなこと歩きながら思い出していたら。無性にヒッチコックの「三十九夜」が観たくなった。ヒッチコックは先生の生涯のアイドルだったからね。キネマ旬報に書いた先生の最初の原稿「目を閉じて視覚化せよ」はヒッチコック話だったし。
もうすこし先生の書いたものを引用する。
『日曜に人形町を歩いたときはビックリしてしまったなあ。たいていの商店がブラインドをおろしていて、あいている店といったら四軒くらいしかない。そうして人間も二人か三人くらいしか歩いていないんだ。 ぼくはウィークデーの夕方に人形町をブラつきながら、こんなに静かな町はいまどき東京にないな、なんだか半分死んだ町だという印象を受け、それだけ少年時代の思い出が強く浮かび上ってくるので面白くなったけれど、日曜の人形町は死都だといっていい。ぼくは人形町のまんなかを小網町のほうへ曲ったけれどやっぱり一人も歩いている者がいなかった。
東華小学校はどこだったろう、曲りそこなうとまずいなと思ったけれど道をおしえてくれる者がどこにもいない。ぼくはブラつくのが大すきだけれど、ふだん歩いている町の風景とはあんまり違うので薄気味わるい気持になった。むかし人形町に住んでいて今のことを知らない人に日曜の死んだ風景のことを話したって、おそらく想像できないだろう。』
僕も日曜日の小網町を歩いている。先生の言うほど無人ではない。小網神社にも参詣の人が思いの外多かった。
あ~あ。日本橋川河口、東堀留川より南、箱崎川までの東西の比較話をしようかなあ~と思って散歩に出たんだけど、植草先生の話で終わっちゃった。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました