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東京散歩・本郷小石川#24/豊嶋氏の没落

毎日3万人のコロナ発症者と毎日30℃越えの猛暑に晒されたままの東京で、熱射病と間欠性跛行と秋から訪れるスタグフレーションに怯えながら「東京散歩」を綴ってることを書き残し、武蔵野台地の島南端・江戸湊と出会う地域の話を続けたい。
時代は、江戸より前・・に戻ろう。

この地は、家康が来る前、そしてそれより前の後北条の領地になる前・・江戸氏と豊嶋氏の二大勢力があった。前者は下総から鹿島の海に繋がる交易利権の雄である。牧を持ち、馬を育てていた。後者は秩父氏の得た枝分かれで、浅草から発生する交易の北へ広がる要所を抑えることでその利権を持っていた。

単純に分けるなら、江戸湊の海浜部は江戸氏のもの。武蔵野台地の島南端は豊嶋氏のもの。そんな絵図である。この棲み分けの芽生えは律令の頃からだから盤石に思えたのだが・・
文明8年(1478)豊嶋氏が上杉家と唐突に衝突した。長尾景春の乱に巻き込まれたのである。長尾景春の乱について簡単に触れたい
文明5年(1473)月に山内上杉氏の重臣だった白井長尾景信が死去した。その家督は嫡男/長尾景春が継いだ。
長尾景春は家宰職も継ぐつもりだった。しかし実際に継いだのは叔父の長尾忠景(総社長尾氏)だった。上杉顕定が白井長尾家の力が強くなりすぎることを嫌ったのだ。景春は身の危険を感じた。なので扇谷家上杉家の家宰だった太田道灌に相談した。景春と太田道灌は従兄弟だったからだ。
太田道灌は長尾景春の抱え込んでいる上杉家への恨みを危惧した。なので道灌は、主君・山内家上杉顕定と扇谷家上杉定正に「長尾景春を武蔵守護代に任じ、長尾忠景を一時退けた方が良い」と進言した。上杉顕定はこれを拒否した。「ならば、直ちに出兵して長尾景春を討つべきだ」と進言した。しかしその提言も上杉顕定は拒否した。「古河公方成氏と対峙している状況では、長尾景春を討つなどできない。」とした。

当時、上杉顕定&上杉定正は、古河公方と一色触発の状態にあった。したがって部下の嫉妬/陣取合戦には、まったく聞く耳を持たなかったのだ。その経緯を知った長尾景春はさらに主家・上杉家と叔父・長尾忠景憎んだ。それが挙兵に繋がっていく。
景春は、古河公方と手を結んだ。その際に武蔵台地東南部に勢力を広げていた豊嶋氏を味方につけた。

実は、そのころ豊嶋氏の領地が扇谷上杉氏によって、かなり侵蝕されていたのだ。なので豊嶋氏も上杉氏の強引なやり口に腹を立てていたのである。しかし逆に豊嶋氏の領地は、石神井川の流路に沿って広がっていたため、一朝あれば道灌の江戸城と河越・岩付を分断させてしまうものだった。太田道灌は豊嶋氏の反旗を重く見た。すぐさま道灌自身が大将となって戦いを仕掛けている。文明9年4月13日である。道灌の軍勢は今の本郷通り(旧岩付道) を進み、豊嶋氏の本城だった平塚城を総攻撃した。翌年文明10年1月に豊島氏は滅亡した。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました