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江戸と東京をめぐる無駄話#01/米本位制/石高制という二つの車輪

徳川幕府経済は二つの車輪で回っていました。
ひとつは徹底した米本位制度/いわゆる石高制。そしてもう一つは全国共通通貨による貨幣経済です。
米本位制/石高制というのは、支配者が領民から年貢米を集め、それを部下である武士に末端まで禄高に応じて分配するシステムです。利益配分を石高という基準で整合する素晴らしい方法です。
荘園時代以降の支配者たち/足利鎌倉・信長・秀吉らは、すべてこの米本位制を採用していました。徳川幕府が過去の支配者たちと同じく石高制に準じたのは、生産の中心を農本位制(稲作)とする限り、石高制を他のものに置き換える必要なかったからです。古い狩衣を先達に倣って纏ったのです。
違うのは、それに貨幣制度を織り込んだことです。

徳川幕府は天下統一を為すと、すぐに全国共通通貨を作り始めます。流通の基盤に通貨を置いたのです。もちろん徳川幕府以前にも通貨は有った。しかし全国レベルで流通し得る貨幣は有りませんでした。貨幣は背景にそれを発行する者の信用裏付けがないと機能しません。全国共通貨幣が成立するには、全国が政治的に統一され政情が安定化しない限り不可能なのです。徳川幕府はこれを為した。
そのことによって、きわめて高機能な米本位制/貨幣経済という両輪体制社会が成立したのです。

各武士は禄高に関係なく(身分の上下関係なく)自家消費分を抜いた残りを換金し、それによって様々なものを贖いました。米を金に換えた。米は流通しますが最終的には消費され無くなってしいます。しかし"貨幣"は無くなりません。流通するだけです。この「時間が経ってもなくならない」という特性が富の膨大な蓄積を可能にさせたのです。この方法はきわめて"高機能"で幕末まで200年ほど殆ど経年疲労しませんでした。

当時、貨幣は大きく分けると三種類ありました。
①幕府発行のもの。金貨/銀貨/銅貨(銭)です。
②各藩が発行するもの。これらは幕府発行の貨幣に対応して藩札/金札/銀札/銭札と、ありました。
➂商人の間で使用される私札。
硬貨は幕府が、紙札は各藩が発行していました。私札は機能としては手形のようなもので、商人間の取引ではしばしば用いられていました。
そして・・ひとつ重要なファクターがあります。
それは流通する貨幣は、完全に自由な変動相場制だったことです。差益のコントロールはマーケットに任されていた。
じつはですね「江戸時代は遅れた・封建社会」と言われることがありますが、とんでもない。両替による差益も、様々なモノの価格も市場原理に任され、自由競争をベースとしたきわめて資本主義的な市場経済システムが広範囲に機能していた社会でした。

貨幣経済の安定は商業資本の成長を促します。年貢収入に依存する武家は容易に収入を増やすことはない。しかし自由経済を背景とした町人は努力と運によって膨大な富の蓄積が可能です。身分的には士農工商と云いながらも、商人が経済の中心になっていったのは、政治力/軍事力以外の統制については必要と思われる以上の干渉を徳川幕府がしなかったためです。
武家は軍事力と政治力という二つの"力"には敏感だが、経済"力"については所詮前2項の"力"でねじ伏せられるものと侮っていたからに違いありません

事実、江戸時代を通して、いつでも武家は商人に多額の借金をしても、しばしばそれを不履行にしました。商家は泣き寝入りするしかなかった。泣き寝入りしても、すぐに再度蓄財できるシステムが幕府によって暗黙に認められていたからこそ泣き寝入りを続けたんでしょうな。
こうして「日本製アンシャン・レジームAncien régime」は連々と守られ続けました。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました