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東京散歩・本郷小石川#23/本郷坂道夏散歩#03

嫁さんと娘が二人で出かけちゃった。だから今日の坂道夏散歩は僕独りとなる。
雨が消えて、少し曇気は立っているけど気温は26℃。少しはラクだ。相変わらず間欠性跛行は少しずつ悪化しているけど、逆に言えば僕の持ち時間が少なくなってきているということだから、歩けるときは歩けるだけでかけたほうがいいということだろうな。‥そう思った。
本郷三丁目の春日通りを白山へ降りていくと、春日町の交差がある。丸の内線後楽園駅の傍だ。今回の始点はここから。

春日町交差点の先に礫川公園がある。もともとは水戸徳川家の屋敷だったが、明治の御代に召し取られて陸軍の砲兵工廠になっていた。戦後、都営住宅/中央大学/戦没者慰霊堂などに分割されたとき、その一部が公園になった者である。昭和39年だ。北東側の都営住宅に面した花壇は宮沢賢治(1896~1933)が残したデザインをベースにしている。前述のように賢治は上京すると本郷菊坂町に住んだ。謄版印刷の仕事に就きながら猛烈な創作活動をしたので有名だが、農学校で教鞭を取っていた時期に「涙ぐむ目tearful eye」などの花壇を設計している。この設計図を基に作られている。
その傍らに「東京都戦没者霊苑」がある。
正面に大きな人工滝があり一際目を惹くが、この滝を背景に「東京都戦没者鎮魂の碑」がある。碑の黒御影石にはこう刻まれている。
『あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声も聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。
この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、慈にこれが辞を作る。  山本健吉』
逝った人々の声を肌に感じないままの街歩きは空疎だ。

これも前述したが、本郷台地に比べて小石川/小日向台地は緩やかで優しい。それでも坂道は幾つもある。今回は金剛坂の先、新坂を目指した。新坂は春日通りから巻石通りへゆっくりと下る坂道だ。なぜ新坂かというと・・もう一つ定かでない。江戸時代になって新しく作られた坂なんだろうな。そう思う。
「続江戸砂子(享保20年1735)」に「新坂 又今井坂と云、此所ハ酒井讃州侯の屋敷の旧地也、坂のうへ、蜂谷孫十郎殿やしきの内に兼平桜と号大木あり、これによつて今井坂と云か、来歴しらす」とあり、これが僕が知る限り初出だ。酒井家は若狭国小浜藩主である。「続江戸砂子」より古い「御府内沿革図書(元禄代688~1704)」には「酒井靱負佐」とあるが坂という表記はない。
嘉永・安政期(1848~1860)頃の切絵図には「シンザカ」と記されているから、おそらくこの時期に定まったのかもしれない。

春日通りを新坂へ左に曲がって少し進むと。丸の内線を跨ぐ陸橋がある。そこに「徳川慶喜終焉の地」の碑がある。国際仏教学大学院大学の正面だ。霊友会が創設した大学だ。霊友会は法華行者・小谷喜美が中心に発足した新興宗教で、戦後最大の新宗教教団。立正佼成会など多くの分派を生んている。
・・「徳川慶喜終焉の地」を訪ねたんだが・・おお、こんなところを買ってるのか、と少なからず驚いた。

さて。徳川慶喜である。
蟄居した静岡から東京へ戻ったのは明治30(1897)年。明治政府は巣鴨へ慶喜の隠棲のための仮住まいを置いた。春日二丁目/小日向第六天町に慶喜邸宅を建てたのは明治44(1901)年。第六天町には会津松平家の屋敷が有った。明治政府の重鎮である。慶喜邸宅はその傍らに建造された。彼は此処で恙なく生涯を終えている。革命軍に追われた王が天寿を全うする例は稀有だ。その意味でも慶喜は強運の人だったと言えよう。ラットレースを持って得た将軍職は短い。将軍職に就いた後の二転三転する態度と判断。そして天皇家に対しての憧憬については。母方の血というばかりではなく、深くその精神構造を探ってみてもいいと思うのだが・・慶喜の心の中をそんな形で探求した識者は寡聞にして知らない。

彼は天保8年(1837)水戸藩9代藩主徳川斉昭の子として小石川の水戸藩上屋敷で産まれた。慶喜の故郷は水戸ではなく小石川だ。利発な男だった。新進気鋭の勢いがあった。成人すると御三卿のひとつである一橋家を相続した。そして将軍後見職などを経て、ラットレースの末。慶応2年(1866)に将軍職に就いている。そして明治革命軍によって、その地位を追われた。大政奉還以降は、まったく政ごとからは遠ざかっている。
その彼の軌跡については松戸市戸定歴史館が所蔵する「徳川慶喜家扶日記」に詳しい。同日記は徳川慶喜家の家扶・家従によって書き継がれた彼らの業務記録。慶喜の動静や、慶喜邸での出来事、来訪者や交際の様子などである。明治5年(1872)から45年までの43冊が残されている。

同日記・明治34年8月1日に「御幌馬車ニテ小日向御新邸江被為入」とある。また9月19日には「御出門御徒歩ニ而小日向御邸へ」とある。本格的な引っ越しは明治34年12月24日で、日記には「九時四十分御出門、御幌馬車ニテ小日向御新邸ニ御移転」とある。
もともとは生誕地でもある。彼の手から離れて30数年しか経ていない。土地勘もあり懐かしかったに違いない。日記には移転後のことも多く残されている。明治35年4月5日には「御徒歩ニ而江戸川辺御写真」8月10日には「御徒歩ニ而丸山町有栖川様御別邸へ鷺狩ニ御出」などと外出の様子が度々日記の中に見られる。
おそらく趣味のカメラを携えてのがいしゅつだったのだろう、明治38年3月12日には「御徒歩ニテ御近傍御運動御写真機御携帯」明治39年3月16日には「御徒歩ニテ音羽辺へ御写真ニ御出」とある。嬉々と無心に写真を撮って歩いた慶喜の様子が窺える。その舞台のメインハイライトが、この新坂なのである。
大正2年(1913)11月22日、慶喜死去。77歳だった。
「萬朝報」大正2年12月1日にこうある。「竹早町電車通りよりと、水道端より(慶喜邸)正門に至る間は一時通行止め」と。そしてその混雑ぶりと、沿道に土下座する老人の姿などを伝えている。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました