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夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-11/ローマ教会とクローヴィスを繋いだもの

ガリアに進出したゲルマン人の中で最初の成功者は、間違いなくブルグント人だった。彼らが支配したのがブルグンド王国Kingdom of the Burgundiansだ。西暦411年、ブルグンド王グンダハールGundaharがアラン王ゴアールGoarと手を組み、ヨヴィヌスJovinusを傀儡皇帝として立ちあげたものである。彼らはフランス東南部からスイスに及ぶ地域を支配していた。

その後を追ったのがフランク人だが・・当初彼らは頭角を伸ばせないままでいた。ガリア人と戦い、一方で他ゲルマン人とも戦うという状況に陥り、鳴かず飛ばずの状態だったのだ。
それを変えたのがクローヴィスだった。彼はローマ教会と手を組んだのである。
300年なかば、ローマ教会は広くガリアの民を押さえていた。しかし480年に西ローマ帝国が滅亡し、その後ろ盾を失ったことで、跋扈するゲルマン人の侵略に翻弄されるようになった。多くの教会が破壊され、彼らの支配する畑は荒らされるようになった。救済が必要だった。しかし・・だからといって東ローマ帝国を頼るわけにはいかない。東ローマ帝国は、ローマ教会と対立するコンスタンティノープル教会(正教会)を国教としていたからである。むしろ・・おそらくローマ教会は、東ローマ帝国がそのまま北ヨーロッパへ拡散してくることを何よりも恐れていたに違いない。
そこにクローヴィスとの出会いである。
ローマ教会は、オノレを守る軍事力が、喉から手が出るほど欲しかった。クローヴィスは、停滞している戦況を一挙に好転へ持って行けるチャンスを求めていた。
おそらく間を取ったのは聖レミであろう。彼はクローヴィスが征服したセルニー・アン・ラオノワCerny-en-Laonnoisのソワソン司教の娘セリナの息子であると言われている。間に聖レミがある限り相互に裏切りはない。聖レミは、ローマ教会とクローヴィスの両方へ、二者協働の意味と価値を強く説得したに違いない・・と僕は考えている。

496年(諸説ある)クローヴィスは部下3000人と共にローマ教会アタナシウス派へ帰依し、神の代理者としてオノレの戦いを「聖戦」にした。そし、キリスト教信者の力を借りて、他ガリアを一掃し「カトリック教会の長女」としてのフランスを生み出していた。
508年、躍進するクローヴィスの聖戦軍に、東ローマ皇帝アナスタシウス1世が「アウグストゥスAugustus」という称号が与えられた。西ローマ帝国の執政官を命じた。つまりクローヴィスは、このときローマ帝国によって正式に承認されたわけである。
そして511年、クローヴィスは統一王朝として成立。領土は北海からピレネー山脈に至る大きさになった。
こうして欧州にはフランク王国とルグンド王国が偉大勢力として対峙した。
戦いは20年以上続き、534年ブルグンドは滅ぼされ、フランク王国の一部になった。
 
「聖レミって、ランスに行ったときに見たノートルダム大聖堂でクローヴィスを洗礼した人でしょ?」
「ん。ローマ教会を背景としたクローヴィスは10年ソコソコで王国を作り上げたんだ。511年だ。ローマ皇帝からのお墨付きまで貰って、得意絶頂だったろうな。その得意絶頂の中で511年11月27日に亡くなった。生まれたのが466年付近だから55歳前後だった」
「そんなに若く亡くなったの?」
「うん。波乱万丈な人生だったろうな。晩年はフランク族の近縁筋に様々な奸計を仕掛けて、次々と粛清した人だった」
「え~どうして??」
「カロリング家を守るためさ。生きているうちに争いごとの種を全部殺そうとしたわけだ」
「すごいわね」
「やはり・・キリスト教化してもゲルマン人はゲルマン人のままだったということだ」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました