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甲州ワインの謎#17/薬師如来と秦氏

景教ないし大秦教と呼ばれる原始キリスト教は、シリア人ネストリウスNestorius(386-451)を首領とするネストリウス派を指す。ネストリウス派はマリアを神の母と認めない。聖像崇拝をしない。そのためエフェソス公会議(431)において異端とされ、ローマを追われ東方へ逃げた。そしてその主体をササン朝ペルシア王国にその身を置いた。アッバス朝建国後は大きく勢力を伸ばし、勢力を西域に広げた。ついには中央アジアのアム川流域へ広がり、6世紀になるとシルクロードをたどって北魏の首都洛陽に至ったのである。
ちなみに余談だが。この時布教していた宣教師たちが6世紀ごろに蚕をビザンツ帝国にもたらしたと言われている。これよりヨーロッパでもシルク紡績が行われるようになった。

当初、シルクロード経由で持ち込まれた原始キリスト教は「波斯経教」と呼ばれていた。教会も「波斯寺」と呼ばれていた。しかしゾロアスター教、マニ教との混同が著しいので、新しく「景教」という漢字名をつけられるようになった。きっかけを作ったのは唐太宗である。
「大秦景教流行中国碑」にその経緯が記されている。
同碑によると、貞観九年(635)に大秦国・阿羅本を代表とする二十名がはるばる長安を訪れたとある。そして彼らは宰相房玄齢によって宮中に招かれ、持ってきた経書を蔵書楼で翻訳したという。唐太宗李世民は阿羅本の翻訳した経典をいたく気に入り、貞観十二年(638)七月に詔を下し、阿羅本達のために長安城義寧坊に景教教会を建てた。その詔書には「道無常名、聖無常体。随方設教、密済群生。大秦国大徳阿羅本、遠将経像、来献上京。詳其教旨、玄妙無為。観其元宗、生成立要。詞無繁説、理有忘筌。済物利人、宜行天下。所司即於京師義寧坊、造大秦寺一所、度僧二十一人」とある。このとき阿羅本は「鎮国大法主」に封ぜられたとある。同時に諸州に景教教会を建てるよう詔勅が下されたとある。

こうして景教はゾロアスター教、マニ教と共に唐代三夷教と称され唐王朝に広まることになった。
西暦745年・唐玄宗天宝四年、景教は「大秦教」と改姓した。この時から原始キリスト教には「景」の字ではなく「大秦」の字があてられるようになった。
大秦とは、西域を指す言葉である。中原の人々はペルシャの彼方にも大国があることを知っていた。ローマもしくはシリア諸国である。
長安にあった景教寺院に「大秦寺」という名前が付けられたのはそのためである。

この大秦を指して日本は「UZUMASA」の音をつける。日本語ではない。もちろん中国語でもない。
書紀・雄略一五年によると「庸調の絹縑を奉献りて朝庭に充積む。因りて姓を賜ひて禹豆麻佐(ウツマサ)と曰ふ」とある。もちろん何故、秦酒公が「禹豆麻佐」と怪異な名を賜わったかは記されていない。
「UZUMASA」の本来は相変わらず分からないままだ。もしかすると・・西域のどこかにその原点があるのかもしれないが・・残滓はなにもない。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました