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独立記念日を想いながら02/北アメリカ大陸における英仏代理戦争

北アメリカ大陸における英仏代理戦争は、主にヌーベル・フレンチと呼ばれた地域で行われています。実は1750年当時、北アメリカを領有していた国は、英国よりフランスの方がはるかに大きかったのです。しかし植民という観点から見ると、非国教徒を棄民する場所としてアメリカ大陸を利用した英国に対して、フランスからの移民者は圧倒的に少なかった。産業も、フランス側では獣皮の貿易が主たるものでした。

一方、東海岸に広がっていた英国の植民地は、ラム酒を物々交換の材料として。欧州・西アフリカ象牙海岸を回る三角貿易の一角として飛躍的な発展を遂げるようになっていました。こうした均衡の崩れは、当然戦争へ発展してしまうものなのです。

1754年5月。ペンシルベニア州ピッツバーグで、当時まだバージニア民兵隊の指揮官でしかなかったジョージ・ワシントンが、フランス側を(勝手に)襲撃したことから始まって、最後にはスペインまで巻き込んで、イギリス・フランス・スペインが三つ巴で戦うことになってしまう「フレンチ・インディアン戦争」が始まります。

ちなみにアメリカの歴史家は、これを「フレンチ・インディアン戦争」フランスがインディアンと結託した戦争と呼びますが、フレンチカナディアンは、これを「征服戦争」アメリカの征服野望による戦争と呼んでいます。

もう少し大きな視野から、欧州で同時に始まった「七年戦争」の一環として捉える歴史家もいますね。いずれにせよ、アメリカ大陸での戦いは1763年まで続き、最終的には英国の勝利になりました。

この「フレンチ・インディアン戦争」の勝利によって、英国は大きな領地を手に入れました。

その勝因はいくつか有りますが、最も大きいのは英国植民地が経済的に最も力が有ったことです。「フレンチ・インディアン戦争」に参戦した、英国・フランス・スペイン三国とも、戦費を自分たちの持ち出しでやる気はなかった。したがって自分の金と人材で、この戦争に立ち向かったのは、東海岸の13の植民地で暮らす人々だけだったのです。・・それだけの理由で考えても、彼らが圧勝したのは全くの必然だったと言えます。

ところが。戦勝すると、英国は他処でも展開していた戦費の徴収のために重税を植民地の人々へ課しました。戦費はお前たちで持て!という訳です。これが大きな不満となった。少なくともアメリカ本国で戦ったのは・・そして、金を注ぎ込んだのは13の植民地の人々です。英国本国ではない。

こうして独立戦争は1775年4月19日から始まります。植民地側のイニシアティブを握っていたのは、あのフレンチ・インディアン戦争のきっかけを作ったジョージ・ワシントンです。この戦争は1783年9月3日まで続きました。当初、強力な海軍力を持つ英国が沿岸部を抑えましたが、内陸部では独立軍・ジョージ・ワシントン軍が善戦した。そこにフランスとオランダが協力するようになると勢力は一転。独立軍の勝利となってしまうのです。そして、アメリカ連邦・第一代大統領は、もちろん独立軍を率いていたジョージ・ワシントンになってしまいます。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました