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夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩4-5/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#05

ホテルのディナーは充分、満足した。
https://www.hotel-lerichebourg.com/le-bar-le-restaurant/
シェフはRomulad Sikorskiさん。食事後にご挨拶を頂いたが、とても品の良い方だった。
予約するときにディナーのワインはロマネ村の白(!)DRC以外で・・という無理難題なリクエストをしたので、それにどう応えをだしてくれるのか楽しみだった。出されたのはDomaine Jean-Pierre GuyonのSavigny-lès-Beaune Blanc, Les Planchotsだった。


すごいね、さすがに知ってる。はじめてトライしたが、見事なこの土地のシャルドネのワインだった。

https://www.domaineguyon-vosne.com/en/home/

「いかがですか?」と声をかけてくれたソムリエへ感謝すると共に「CHATEAI DE SAVIGNYへ戦闘機を見に行ったよ」と話したら大喜びをしてた。
「Jean-Pierre Guyonは他にも幾つか白を作ってます。Nuits-Saint-Georges Les Argillatsも素晴らしいですよ。こちらはシャルドネではなくピノ・ノワールのアルピノです」と話された。
「おお、明日のディナーはそれにしたいです」僕が言うとソムリエが快諾した。
「ピノ・ノワールの白があるの?」と嫁さんが言った。
「突然変異種だよ。ピノ・ブランという。ほらピノは気難しくて変異種が出やすいと言っただろ。その変異種だ。アルザスは有名だが・・トリンバック ピノ・ブランとかね」
ソムリエに聞くと、Jean-Pierre Guyonのピノ・アルピノは1930年に地元で生まれたものらしい。アンリ ・グージュが発見したものだそうだ。アルザス製ではない。こりゃ楽しみだな・・と思った。世の中、幾つになっても驚きに出会う。ワインに感謝・感謝だ。

「このあたりは"Vaona"森と呼ばれてたって話、したよな。土壌も気象条件も良かったから、葡萄畑としての優秀性は早くから知られていらしい。葡萄畑はガロローマの時代から有ったようだ。ゲルマン人たちの時代になった時・・500年代の所有者はブルゴーニュ王ゴントランGONTRANだった」
「だれ?ブルゴーニュ王ゴントランって」
「クローヴィスの直系の孫だ。父親はクロテール1世で、彼はクローヴィス死後524年にオルレアンの持ち主になった。その後534年にブルゴーニュ王。555年に東フランク王。そして558年にパリ王にまでなった人だ。
クロテール1世の死後、ブルゴーニュを含むオルレアン王国を譲り受けたのがゴンドランなんだよ。彼もまた晩年にはパリ王になっている。そのゴントランが593年3月28日に亡くなった。またまた息子たちに土地は分割譲渡されるわけだが、熱心なクリスチャンだったゴントランは自分が所有していたコート・ドールの葡萄畑をデジョンのサン・ベニーニュ修道院へ寄贈したんだよ。
これがきっかけてこの付近には沢山の修道士が入ってきて、教区と開墾が始まったんだ。史料として最初に出てくるクロ・ド・ベーズClos de Bèzeはサン・ベニーニュ修道院だ。ジュヴレ・シャンベルタン村の北にある。今はロベール・グロフィエがオーナーだけどな。ほんとに旧い畑だ。
Chambertin-clos-de-bèze(21220 Gevrey-Chambertin)

サン ヴィヴァンにあったド ヴェルジー修道院L’abbaye Saint-Vivant de Vergがヴォーヌロマネの至近Curtil-Vergyで開墾を始めたのが894年から 918年あたりから。既に開墾に入っていたクリュニアック修道会L’abbaye clunisienneに正式な許可が出たのは1087年。クリュニアック修道会はサン・ヴィヴァンSaint-Vivant(7 Rue de l'Abbaye de Saint-Vivant, 21220 Curtil-Vergy)に有った修道院だ。そして、いまのロマネ村の中央部Le Cloux de Vosneを所有していたAlex de Vergy家がボーヌのサン・ヴィヴァン修道院へ寄付したのが1232年。1.7ヘクタールあったそうだ」
「それだけ修道院の名前が並ぶと‥何が何だかぜんぜんわからなくなっちゃうわね」
「1200年代から、いまヴォーヌ・ロマネと呼ばれる地域はサン・ヴィヴァン修道院の管理下に入ったんだよ」
「ふうん・・ようやくロマネ村の名前がでてくるのね」
「いや、当時はロマネとは呼ばれていなかった。クロ・デ・クルーClos des Clouxと呼ばれていた。いまのRomanée-Saint-Vivantを含む大きな区画だ。
La Romaneeと呼ばれるようになったのは、1631年にサン・ヴィヴァン修道院からド・クルーネブール家de Croonembourg familleが買ったときからだ」
「クルーネブール?」
「今のリヨンの近くにSaint-Genoisと言うところがあった。そこの領主フレミング家の一族だ。フィリップ ド クルーンブールPhilippe de Croonembourgという。結婚の引き出物として買ったらしい。
この時、なぜPhilippe de Croonembourgが村名を替えたかはわかっていない。Romaneeはラテン語男性名Romanus+acum土地を意味する接尾辞だ」
「ヴォーヌ・ロマネじゃなかったの?」
「Romaneeの前に旧名のVosneを付けたのはナポレオン三世だ。1866年 4 月 11日だよ。第2回パリ博が有った1867の前年だ。目的はLa Romaneeだけでは場所がイタリアだかフランスだよくわからない。分かりやすいように改名したんだろうと思う。要請はロマネの所有者たちから市議会に 1865年 5月7日に出されて、これが通った・・ということだ」
「びっくりね、こんなに長いワインの歴史を持ってるのにヴォーヌ・ロマネになったのは、つい最近/160年くらい前なのね」

「中国5000年の歴史と一緒さ。中原を中心とする地域が"国"となったのは、清代が滅んだ後だ。中華民国が出来たのは1912年だ。100年そこそこだ・・ということ。4900年分サバよんでるわけ」
「あら。。そうね。2000年分くらいは愛嬌ということね」
「御意」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました