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小説日本国憲法 3-12/陣痛から破水へ

在米日本大使館公邸は、ワシントン北西部の住宅街ネブラスカ通りにある。
1931年10月に設立され1941年12月戦争勃発と共に米国側に接収されたいたが、終戦後米国極東委員会設立されると、此処が拠点に指定された。1846年2月26日(日本時間の27日午前)極東委員会第一回会議は、此処で開かれている。
同委員会の任務は「極東委員会及聨合国対日理事会付託条項」の中で以下のように定められていた。

一 日本国ガ降伏条項ニ基ク自国ノ義務ヲ完遂スルニ付準拠スベキ政策,原則及基準ヲ作成スルコト
二 聨合国最高司令官ニ対シ発セラレタル指令又ハ最高司令官ガ執リタル行動ニシテ委員会ノ権限内ニ在ル政策決定ニ関係アルモノヲ参加国ノ要請アリタルトキ検討スルコト
三 後ニ掲グル五ノ二ニ規定セラルル投票ノ手続ニ従ヒ到達セラレタル参加国政府間ノ合意ニ依リ委員会ノ任務ニ属セシメラルル他ノ事項ヲ審議スルコト

乙 委員会ハ軍事行動ノ遂行ニ関シ又ハ領土ノ調整ニ関シテハ勧告ヲ為スコトナカルベシ
丙 委員会ハ其ノ活動ニ関シテハ聨合国対日理事会ガ設置セラレタル事実ヨリ出発シ且合衆国政府ヨリ最高司令官ヘノ命令系統及最高司令官ノ占領軍隊ニ対スル指揮ヲ含ム日本国ニ於ケル現存ノ管理機構ヲ尊重スベシ

構成メンバーは、英・米・ソ、中華民国・オランダ・オーストラリア・ニュージーランド、カナダ・フランス・フィリピン・インドの11カ国。中で、オーストラリア、フィリピンが、日本について強く悪感情をもっていた。そして米国代表のマッコイは、日本と云うよりマッカーサー個人に対して不快感を抱いたいた。そんな人々が、「日本国が遂行すべき義務の基準作成および審議」「軍事行動の遂行や領土調整に関して勧告することなかるべし」「連合国軍最高司令官の占領軍に対する指揮と日本における管理機構の尊重」について、ワシントンDCに集まり、討議しようとしていたのだ。ちなみに東京裁判では、この11か国が夫々に裁判官を出している。

この日、開かれた極東委員会第一回会議は、最初から互いの利権をぶつけ合う場になった。
オーストラリア代表は、英米ソらへ拒否権が特別付与されたことについて不快を示し、議事進行の方法についても厳しい論議が交わされた。つまり「日本という獲物/屍肉」をどう分け合うかについて、誰も一歩も引かなかったのだ。
長い討議が為され、賠償問題と経済財政問題について7つの委員会が夫々設けられることになった。このうち、憲法等法律改革については、第三委員会を設け、ここで検討するということに決まった。
この話はすぐにワシントンから、GHQに伝えられた。
1946年2月27日の午前中である。その日の午前中のマッカーサー/ホイットニーのミーティングは、この話が中心だった。
マッカーサーの部屋から自室に戻る途中、ホイットニーはケーディスの部屋をノックした。そして「来てくれ」とだけ言った。601号室に戻って事務机に着くと、すぐさまケーディスが入ってきた。
「議事録を読んだ感想は?」ホイットニーが言った。マイ・オピニオンを必ず聞くのがホイットニーの流儀だ。ケーディスは立ったまま言った。
「第三委員会の議長がインド代表なのは良い傾向だと考えます。フィリピン乃至オーストラリア代表でなかったことは僥倖です。」
「ん。どんな駆け引きが裏で有ったのかわからないが、マッコイ将軍は対日強硬派にオールを渡すつもりはないようだ。副委員長になったハーバート・ノーマンも、日本育ちのハーバート大学卒だ。相当の知日家だ。無茶振りはしないだろう。」
「しかし、それでも彼らが日本国憲法に口を出してくるのは・・」
「よくないな。元帥も懸念されてた。極東委員会が大手を振って日本を歩くのは、我々にとって極めて宜しくない。・・日本の老人たちはどうだ?」 「事態が見えているのは、吉田・白洲だけでしょうか。松本は相変わらず唐変木blockheadです。とりあえず毎日、まだかまだかの電話は入れていますが、反応は鈍いです。」
「途中でもいいから持って来いと連絡してくれ。日本語のままでいいから持って来いと、怒鳴りつけてやれ。」
「了解しました。」
「いずれにせよ、来週には日本国憲法を審議する第三委員会が、第一回目の討議をする。それまでに何とか片をつけたい。」
「3月3日4日あたりですか?」
「ん。」
「了解しました。最後通牒をします。」
「よろしくたのむ・・しかし何度最後通牒をすれば、あいつらは動くんだ・・」ホイットニーは座っていた椅子をくるりと窓のほうへ回し、皇居の杜を見ながら言った。

この話の前日、1946年2月26日火曜日、25日の閣議を経て政府案・日本国憲法起草が、日本側で漸く始まっていた。起草のための作業は、首相官邸、二階奥の放送室が使用された。ここは防音完備で隔離されているだけではなく、休憩用のベッドまで有った。前日の閣議で、松本蒸冶は政府案制作の手伝いとして入江俊郎法制局次長及び佐藤達夫・同第一部長の協力を得たい旨、申し入れていた。
佐藤達夫に「松本博士の補助をせよ」と連絡が入ったのは25日の夜である。佐藤は当初それほど重く考えていなかった。
彼が所属する法制局は戦前からある組織で、主たる業務として法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べる「意見事務」そして閣議に付される法律案、政令案及び条約案を審査する「審査事務」を行うセクションだ。云ってみれば日本政府の「法制知」の担い手であり、明治以来連々と続く法統治の、最も堅固な支えである。
重要な法案について、彼らが「意見事務」を行うのは普通だったからだ。
しかしGHQ憲法案を松本から手渡されたとき、佐藤は仰天した。そして松本から「これを見本として憲法草案を作る」と言われたとき、佐藤は何も言えなかった。
佐藤達夫はそのときのことを「私は・・非常に大きな衝撃をうけた。そして、果たしてこれを極端な時間的制約のもとに、われわれの責任の負い得る形に仕上げることができるかどうか。大きな懸念を抱いたのであった。」と回想している。
入江俊郎・佐藤達夫は、当時法制局中核にいた人物である。松本は彼らを巻き込むことで、彼の手による憲法草案を不動のものにしようと考えたのであろう。それにしても寝耳に水な話だったに違いない。

2月26日朝、首相官邸2階放送室へ集まった松本/入江/佐藤の3人は、先ず仕事の分担をした。起草作業は、松本が佐藤を助手として、第1,2,5章を執筆し、その他の部分は佐藤が担当し、入江法制局次長もコレに参画するという形で進められた。夫々が書いたものを透写用紙で複写を起こし、これを交換し合うこととした。
しかし松本は・・おそらく・・起草の情熱を失っていた。心血を注ぎ一言一句まで練り込んだ要綱を赤ら顔の若造どもに足蹴にされ、その上強引に奴らの作った児戯としか言いようの無い憲法案を元に日本の礎となる憲法を書かされているのである。立場と経緯を見て自分がやるのは致し方ない。しかし実に不愉快千万と、松本は思っていただろう。
それもあって、具体的に作業が始まると、放送室に閉じ篭りっ放しになったのは佐藤達夫だけだった。三人の中で一番地位が低かった佐藤がババを引いたわけである。仕事はすべて佐藤へしわ寄せが行った。佐藤は帰宅も侭ならず、ほとんど一人きりで憲法制定に正面した。

GHQが出した憲法案は、一つ一つをロジカルに詰めて行こうとすると情緒的で、あまりにも厳密性を欠いていた。それに如何にも思いつきとしか思えないもののカタマリで、無意味な部分も多かった。「こいつはこのまま日本語訳して法文にしたら、後で解釈をめぐって議論百出の世紀の悪法になるぞ」佐藤は頭を抱え込んだ。
上司である入江や責任者の松本に相談しようと思っても、二人は別案件もあると言って中々此処へ立ち寄ろうとしない。他国の憲法について調べようにも、資料はない。調べに行く時間も無い。絶対極秘と松本が宣言していたので、他の法制官の支援を受けることもできない。とんでもない所へ押し込まれた・・佐藤はそう思った。佐藤は、起草に七転八倒した。しかし、実はそれが後で生きてくるとは・・そのときは思いもしなかった。

松本はGHQからの督促の電話に翻弄されていた。対応は次官にさせていたのだが、必ず「松本を出せ!」と強く言われるので、何回かに一度は松本が出た。松本は必ず電話を切ったあと「まったく!なにさまのつもりだ!」と激高した。しかしその督促の電話は、松本だけに行ったわけではない。幣原総理にも、吉田茂にも行った。白洲次郎にまで行った。
その督促の電話が27日を過ぎると、殆ど脅迫めいたものになった。
幣原は、松本と吉田、白洲を集めた。
「途中、書きかけでも良いから持参しろと言ってますな。日本語のままで良いと。」幣原が困った顔で言った。
「出さないわけには行かないでしょう。でないと彼らは必ず新聞に発表しますよ。」白洲が言った。
松本は呻くばかりだった。
「しかし、なぜそんなに急ぐんですかな?総選挙前で充分だと思うのだが。」幣原はそう言って吉田を見た。吉田は難しい顔をしたまま沈黙していた。
・・おそらく26日にワシントンDCで開かれた第一回極東委員会で何か話し合いが有ったんだろう、吉田はそう思ったが、それを口には出さなかった。
幣原は、松本を見て言った。
「何とかなりませんか?」
「3月11日の月曜日までに提出する予定で取り掛かっております。3月4日月曜日から、全てをまとめる作業を入江君/佐藤君そして私で行います。どうしたって英訳は、それ以降ですから、あいつらに提出できるのは翌週月曜日ですな。白洲君。その旨、あいつらに再度伝えてもらえないか?」
「了解しました。本日、直接ホイットニー准将に伝えます。」白洲は言った。
「私が手紙を書こう。」松本が言った。
それは以下のような手紙だった。
「親愛なる将軍 貴下もご存知の如く。貴草案の日本語訳は完成し。本職はただいま、助手一人の援助の下に。同訳をわれわれの慣用的法文形式に書き換える作業中である。本職は、わが案文が月曜日、3月4日までに作成され、直ちに英訳にとりかかれるものと期待している。貴下には納得し難いかもしれぬが、この作業は決して容易なものではなく、何人もこれ以上早くはできないと確信している。本職は、3月11日が最も早い予定日であると申し上げている。
本問題にたいする貴下の協力に感謝を込めて 敬具」

・・なんというぶっらぼうな・・これを読んだホイットニー准将の顔が想像できる。白洲はそう思った。 案の定だった。
ホイットニーは怒りで顔を真っ赤にした。しかし怒鳴り出さなかった。
「よろしい。ホワイト。」ホワイトはGHQが白洲につけたニックネームだ。「3月4日には出来上がるのだな?」
「・・はい、その予定です。」
「よろしい。それを3月4日に持参しなさい。日本語でいい。我々がそれを翻訳する。」
白洲は二の句が出なかった。
「それが我々に出来る我慢の限界だ。あのムーンフェイスに伝えたまえ。」ムーンフェースはGHQが松本につけたニックネームだ。
「・・了解しました。」白洲は厳かに応えた。

佐藤は軟禁状態だった。「マ草案を横目ににらみ、あれこれとひとり思案しつつ、鉛筆を走らせ」と佐藤は回想している。漸う形になったのは3月1日金曜の午後。これを翌2日土曜日に入江が入って細部の修正を行い、翌日3日再度、松本/入江/のチェックを受けて日本語版は完成・・というつもりだった。それなので凡その自分の仕事は2日土曜日で終わると、佐藤は考えていた。ところがその2日、仕事を終えて自宅を戻ると、すぐさま松本から電話が入った。
「佐藤君、至急戻ってくれ。あいつらが月曜日に必ず持って来いと連絡して来おった。」
「そんなに早く英訳、完成しませんよ。」佐藤はびっくりして言った。
「日本語のままで良いそうだ。翻訳はその場であいつらがすると言っておる。」松本が言った。佐藤は、急遽首相官邸へ戻った。

こうして佐藤/松本/入江の3人によって、日本国憲法起草は金曜/土曜/日曜の3日間で形が調えられ、3月4日月曜に提出となったのである。佐藤はその経緯を「日本国憲法誕生記」の中でこう書いている。
「まるで書きかけの答案用紙を、途中ひったくられたような気持ちだ。」
書き上げた日本国憲法草案を、佐藤は岩倉書記官の手伝いで謄写で30部印刷した。そして、他に数部印刷しこれを幣原総理へ届けた。幣原はその一部を陛下に上奏した。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました