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独立記念日を想いながら04/アメリカ50州のうち31州は準州から誕生した

さて。こうして、英国を追われた非英国国教徒たちが作った東海岸13の植民地ですが、その拡大を阻んでいたのは、東北から西南に大きく連なるアパラチア山塊でした。
アパラチア山塊より西の地区は、東海岸からではなくメキシコ湾側から北上してきたフランスの植民地でした。それがイギリスのものになった後、独立戦争のおかげで最後はアメリカ連邦国のものになった。それを13連邦州が、協議によって所有を振り分けたのです。

これが実は、アメリカが広くヨーロッパ各国から移植者を受け入れていく器になっていったのです。入植した領地は、開拓者が増えると「準州」となり、そして「州」として独立していきます。
バージニア州のケンタッキー区に入植した、スコッチ・アイリッシュたちが独立したのは1792年。この頃から北アメリカ北西部が次々と独立を果たしていきます。

ちょっとめんどうくさい話をすると、1787年に連邦政府は「北西部土地条例」というものを発令しました。これは州になるための法的手続きを定めたものです。
入植者(男子)が5000人を越えると、各連邦の領地は準州になります。準州は、州に比べ以下のような制限があります。
・準州は、連邦議会には議員を送れない。
・住民に大統領選挙の投票権がない。
・準州の知事は、連邦政府が任命する。
・そして、準州の人口が6万人を超えると、連邦議会から、州に昇格する権利を得ることができる。
アメリカ50州のうち31州が、この準州から誕生しています。

ここで一歩下がって考えれば判ることですが・・彼らが移植した土地は無人だったわけではない。先住者がいた。アメリカの州の成立は、言い換えれば先住者たちからの土地の強奪であり、害虫のようにインディアンを駆逐した歴史でもあるということ。これを忘れてはいけないと僕は思います。

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1600年代・欧州各国の人々が北アメリカへ入植した時には3000万人程度いたと云われているインディアンたちは、200年経った1800年代には30万人まで減っていました。

北米アメリカの入植者たちは、インディアンたちをゴキブリのごとく憎悪しました。ワシントンもジェファーソンも、歴代大統領はすべてインディアンの殲滅を目指したのです。とくにワシントンは、インディアンを撲滅せよという命令を軍隊に出し、徹底的な殲滅作戦を実施しています。新開地の開墾には、そこに昔から住んでいるインディアンは、ただただ邪魔者だったのです。

そのインディアン撲滅作戦があらかた終わった1830年。まだ残っている白人に抵抗しなかったインディアンたちについて、ジャクソン大統領は強制移住法を制定し、ミシシッピ川以西のインディアン=テリトリーへ移住させました。その強制移住は過酷なもので、移動中に大半のインディアンは死亡し、たどりついたテリトリーも信じられないほどの荒れ地で、インディアンたちはバタバタと死んでいきました。
20世紀に入って、インディアンたちの人口調査が行われたとき、3万人まで減っていたといいます。現在は少し盛り返して20万人程度になっています。

こうやって、イギリスとの戦いで得たアパラチア山塊の西側の領土が、夫々準州から州になっていくことで44州に増えていったのは、1800代初頭のことでした。
これに続いてフランス・ナポレオンから仏領ルイジアナを得たのが1803年。仏領ルイジアナはミシシッピー川西域の広大な土地で、現在の15州にまたがる地域です。
15州の名前を列挙します。アイオワ、アーカンソー、オクラホマ、カンザス、コロラド、サウスダコタ、テキサス、ニューメキシコ、ネブラスカ、ノースダコタ、ミズーリ、ミネソタ、モンタナ、ルイジアナ、ワイオミングです。最終的に、これらの地域がすべてアメリカ連邦のものになりました。

その開拓を支えた移民たちの多くは、ドイツから・そしてアイルランドから渡ってきた人々でした。この頃から、アメリカ新大陸は英国人のための新天地から、欧州人のための新天地へ、相変位し始めるのです。
その変位の原因は二つです。
一つは、長引く王家・教会の近親憎悪的な戦争・殺し合いで、民たちが疲弊しきっていたこと。そしてもうひとつは、新しい野菜。ジャガイモを襲った疾病です。
疲れ切った欧州の民は、新天地である北アメリカへ希望を求めたのです。
そして累々と重なるアメリカンインディアンの死体の上に、嬉々と我が祖国を作り上げて行ったのです。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました