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小説特殊慰安施設協会#34/東京宝塚劇場

役員室は、日比谷公園に面していた。女子社員が、大きな手拭とお茶を運んできた。小美世はお礼を言いながら聞いた。「結城総支配人はいらっしゃるンですか?」
「はい、すぐ。いらっしゃるそうです。」
「お忙しいでしょうでから、ほんの雨宿りということで、お手を患わずにとお伝いくださいませ。」小美世が言った。女子社員は小さく会釈して出て行った。
「さすが気が利くねぇ。色物じゃない手拭を用意してくださってる。」小美世が千鶴子を見ながら言った。そして手拭で千鶴子の肩を拭き始めた。
「あ。小美世さん。私が。」千鶴子が言った。
「拭き終わったらね、順番よ。ひとりで差したるから傘なれば 片袖濡れよう筈がない♪ってね。好い文句だろ・・それにしても。」小美世は窓の外を見た。
「日比谷公園も燃えなかったんだねぇ。宮城が燃えなかったのは判るけど、この辺りは全然手付かずなんだね。天国と地獄だわね。」
ゲンも窓の前に立った。
「接収するつもりだったんですよ。」とドアのほうから声がかかった。結城総支配人だ。
結城が三つ揃えのスーツ姿で、端整に佇んでいた。
「あ。結城さん。」そういうと小美世は急いで襟を直した。「お忙しいのにありがとうございます。」
「いえいえ、かえってこの大雨の中をありがとうございます。」そういうと、結城は千鶴子を見た。そして「お初ですね」と言った。千鶴子は深々と頭を下げた。
「萬田と申します。小美世師匠のところへお邪魔しております。本日は厚かましくもお邪魔いたしました。」
「ウチのね、ご近所の大学の先生のお嬢さんなんですよ。3月に焼け出されて、それでウチがお世話しているんです。」小美世が言った。
「そうですか。結城の小紋がえらくお似合いだ。何れか良家の奥方かと思いました。」
千鶴子は結城の言葉にドキッとした。
「それにしても、燃えなかったんですわね。この辺り。」小美世が言った。
「はい。幸か不幸か・・アメリカは、東京を空爆し始めた頃には、この戦争は勝つと思ったんですよ。それなので、終戦後に接収するつもりのビルは全て爆撃目標から外したんです。隣の帝国ホテルも。うちも。」
「接収?」R.A.A.の事務所で何度も聞かされている言葉だ。千鶴子は思わず声に出してしまった。
「はい。第一生命ビルを口切に、多数のビルが米軍のモノになっています。ここも狙われているのです。どうやら連合軍兵士用の劇場を、彼らは作るつもりのようなンです。候補として日本劇場と此処が・・挙がっているとの噂です。 ま。ソレもあってね、すぐさま興行を始めたわけですよ。このあとはすぐ長谷川一夫の芝居をかけます。なんとか既成事実を重ねて、接収を避けたいと思っているのですが・・どうなることやら。」

その結城の懸念は当たった。 この「東宝芸能祭り」終了後、長谷川一夫公演の立ち稽古最中に、東京宝塚劇場はGHQに接収されてしまう。そしてアーニーパイル劇場と名前を替えて、連合軍用劇場として、その年の11月から開業している。・・R.A.A.退職後、そのアーニーパイル劇場で働くようになるとは、千鶴子はそのとき思いも付かなかった。

華やかな舞台が終わった後、小美世、千鶴子、ゲンは、日下部の案内で楽屋へ回った。小美世の弟子たちは飛び上がって喜んだ。ゲンも「ゲンちゃん!ゲンちゃん!」と、女の子に触られまくってオタオタした。

その、化粧の匂いと眩い電燈と華やかな衣装で埋まる楽屋には、まったく戦争の香りが無かった。この底抜けの華やかさが千疋屋に設えられた楽屋にはない。千鶴子は笑顔の下でそう思った。おなじく化粧の匂いと眩い電燈と華やかなドレスで埋もれていても、千疋屋キャバレーの楽屋には、澱のように根深い敗戦の傷がある。米兵に抱かれて踊るダンサーたちに、何ともいえない荒みがある。千鶴子はそう思った。ついこの間まで、落下傘を縫っていたという彼女たちには、それがない。
 出口まで送ってくれた女の子たちに明るく手を振りながら、三人は雨のせいか早々と訪れた夕闇の中を有楽町まで歩いた。

街へ出ると、浮き浮きした気持ちは一瞬のうちに消えた。焼け残ってはいても、並ぶビルには全く灯火がない。近くに落ちた爆弾のせいだろうか、窓ガラスが幾つも割れて建物内部の暗闇を余計凄惨に見せている。
「おや。日東紅茶の店は、もう接収されたのかい」歩きながら小美世が言った。小美世の声も、先ほどの明るさは消えていた。
筋向うの喫茶カテイの洋館四階建は真暗だった。四ツ角五階建名物食堂も真暗なのに、日東紅茶だけは煌々と電燈が付いていた。
「これがほんとの明暗分ける・・というやつだねぇ。自力とアメリカさまのお情けを受けることの差が・・ほんとに見事に出てる街だね、日比谷は・・でもきっと、此処だけじゃないんだろうねぇ。これからの日本は、アメリカさまのお情けを受けられるかどうかで、はっきり明暗が分かれるのかもしれない・・こんな負け方するなんて・・亡くなられた兵隊さんは、さぞかし口惜しいだろうねぇ。」
3人は雨の中、無口のまま帰宅した。



無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました