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ラスコーの谷で考えたこと#06/"交易と略奪"

狩猟採取によって個体生存必要食料量(800,000cal/人/年)を得るには0.11人/km2が必要です。なのでヒトが生存可能地区でのヒトの員数は限界値がありました。ボルドー地区ではおそらく4000人程度だったろうと、前回書きました。
では。なにがこの限界値を突破させたか?
牧畜と原始的な農耕です。
牧畜と原始的な農耕は、自然発生的に各地でほぼ同時期に発生したと見るべきでしょう。
花粉分析によると、B.C.8,000年頃より森深いアキテーヌ盆地が切り開かれるようになり、放牧地や畑が同地に誕生し始めます。しかしそこで栽培された穀物類は、そのままではそれこそ"煮ても焼いても"食べることができません。穀物類を食料化するには、これを細かく挽く必要があります。石臼が登場し挽く技術が必要です。これは磨製石器(斧)に似ていますが、機械としての構造を持っている道具です。これが自然発生的に各所で誕生したとは考えにくい。なので何らかの交易で、これらが広がったと考えるべきでしょう。

実は、交易そのものは狩猟採取時代には、すでにかなり有ったようです。
遠隔地にしかない石(黒曜石など)で作られた石器が、相当広範囲で発見されているからです。これらは交易によって分散された。学者たちは「沈黙交易があった」と言います。つまり村境に何かを置いておくと、これが他のものに交換されているという交易の方法・・これが、早くから有ったと言う。結局のところ、別グループとは云え、元は近しい血縁関係から派生したものなので、互恵を生み出すための信頼関係は紡ぎやすかったのかもしれません。
もちろん強奪や略奪も有った。しかしこうした「互恵」という考え方の上に則った「交易」が模索の上に成り立っていたとするほうが、僕はとても「ヒト的」だと思うのです。そう云う意味でも「交易」は、もっともヒトらしい行為のひとつだと云えましょう。

おそらく農耕牧畜の技術と素材"ウシ・ヒツジ、栽培用タネ"などは、交易によって得たと考えられます。そして同時に他部族の進出も有ったかもしれない。
実は、この半農半牧で使われる技術も素材も多くが小アジア/アナトリアを出自とするものが大半です。
灌漑技術の集約化は同地で行われており、ムギなどの穀物も同地から拡散しています。
ちなみにインド・ヨーロッパ語は、同地から始まった言葉です。
家畜で云うと、ヒツジの家畜種Ovis ariesはアジア・ムフロン種Ovis orientalisが原種です。アジア・ムフロン種は小アジアからイラン南部の山岳地帯にいる種類です。ヤギの家畜種Capra hircusはベゾアール種Capra aegagrusが原種で、こちらも出自は小アジアです。これらが家畜として飼われるようになったのはB.C.6000年ほど前から。ウシはもう少し古く、10,000年ほど前からヨーロッパ全体に広がっていたオーロックスBos primigeniusを家畜化したものと見られています。
おそらくボルドー地区において、最初に家畜化されたのはウシからでしょうね。

狩猟採集から半農半牧への移行することで、ヒトらはヴェゼール渓谷を出て広大なアキテーヌ盆地を生活の場にしていきます。子の生存率も飛躍的に伸びたと考えられます。絶対人口数も格段に増えて行きました。
つまり、ようやくこの時期から、ヒトらは"現生人類そのもの"になって行ったわけです。
なので。ここからは、今まで「ヒトら」と呼んでいた彼らを、ローマ人が使っていた名称「ガリア人」で呼ぶことにしましょう。ガリアは森というラテン語です。ローマ人は、ヨーロッパ大陸に住む先住民を「森の民・ガリア人」と呼んでいたのです。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました