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金融封鎖と新円発行#02/武士(もののふ)たる渋沢敬三

僕は乱読に倦むと森鴎外に還る。鴎外の端正な立ち姿は、いつでも僕を初心に返してくれるからだ。
最近kindleを使うようになってからは、本当に街なかでもふと鴎外に還れるようになった。ありがたいなぁと思う。

実は、その鴎外の後姿を見つめていると、僕は家督を継ぐということの重荷について考えてしまう。有り余る才能を持ちながら、鴎外はそれを縦横に展開できなかった。彼の苦悩・・そして彼の"諦め"を僕は行間から感じてしまう。
悲劇なんだろうか。諦めを受け入れることは悲劇なんだろうか。
この家督を継ぐということの重さ。本音のところ、僕には理解できない。
飲み屋の小倅として生まれ、彷徨を続けた僕に、そんな縛りはなかったからだ。
うちの店にいらっしゃるお客様の中にも"家を継ぐ話・墓を継ぐ話"を当然のようにされる方がいる。発想の原点がそこからの方たちである。そんな話を伺っている僕は戸惑ってしまう。そして思ってしまう。やはり僕は"日本人的な連帯感"を持ちえない"異邦人"なのか・・と。
僕が見つめる鴎外は、そんな"日本人らしさ"そのものだ。

1945年2月5日、第一生命会館6階612号室・GHQ民政局長執務室で、コートニー・ホイットニーの前に座っている男、渋沢敬三もそんな男だった。
日銀の「沿革」から引用する。
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16代目の日本銀行総裁である渋澤敬三は、明治?昭和期にかけてわが国の民間経済界をリードした渋澤栄一の嫡孫として明治29年東京に生まれました。幼い頃から渋澤家の次代当主と目された敬三は、ひそかに抱いていた生物学への志を断念し、祖父栄一の事業を嗣ぐため、東京帝国大学経済学部に学び、実業界に進みました。

昭和17年、第一銀行副頭取より日本銀行副総裁に就き、19年3月、総裁に就任しましたが、戦時体制の中で、軍部から強い圧力を受け、赤字国債の引き受け、軍需産業所要資金の日本銀行貸出による供給を余儀なくされたことから、激しいインフレが発生しました。一方、戦後は大蔵大臣として、預金封鎖、新円切り換え、財産税の導入等を実施し、混乱した経済の収拾に尽力しました。

こうした傍ら、渋澤敬三は、若き日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、自宅屋根裏に収集した民具、郷土玩具等の標本は後に大阪万国博覧会跡地に創設された国立民族学博物館の母体となったとされています。また、自らも全国を歩いて資料を集め論文を執筆するほか、数多くの自然・社会・人文科学者を支援したとされ、昭和38年に亡くなるまでこうした活動を続けました。
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渋沢敬三は、東京生まれの東京育ちである。
彼は1896年8月25日深川で生まれた。父は渋沢栄一の嫡子・篤二、母は敦子・お公家様である。
篤二は父・栄一の偉大さに押し潰された男だった。マハトマ・ガンジーの息子が放蕩に走ったように、篤二も放蕩の限りを尽くす人生を送った。敬三が物心ついた頃には、深川の家に父の姿は殆どなかった。彼は祖父・栄一に溺愛され育った。
少年・渋沢敬三は多感な子だった。天理自然に強い関心を持ち、豊かにその才能を伸ばしていた。彼は博物学者・動物学者になることを夢見ていたのだ。
しかし、父の放蕩ぶりが彼の未来に暗い影を落とした。再三の叱責にも変わろうとしない嫡子・篤二を渋沢栄一は廃嫡(相続権の喪失)した。渋沢家をこの子には渡せない・・という苦渋の決断である。
そして敬三19才のある日、正装した祖父・渋沢栄一が彼を訪ねてきた。敬三に正面すると、深々と土下座するように頭を下げた。そして言った。
「どうか私の言うことを聞いてくれ。この通りお頼みする」栄一は敬三に渋沢家を託したのだ。
もし・・父を廃嫡したときのように、頭ごなしに家督を継ぐように命令されたら・・敬三は抗ったかもしれない。しかし深々と孫に頭を下げる栄一の苦悩を前に、敬三は逍遥とその運命を受け入れた。
1915年、渋沢同族会は会社組織となり、敬三はその代表取締となった。敬三19の時である。
以後、彼は角を矯め、同族会社の社長として銀行人として生きた。

実は、敬三は大学卒業後、横浜正金銀行へ入行している。そしてロンドン支店で3年間勤務した後、第一銀行に入行している。この時代の敬三は鬼神のようだった。1926年の世界恐慌を乗り切り、金解禁と言う危機も回避してみせた。そんな辣腕ぶりに枢密顧問官の池田成彬が目をつけた。池田に請われて、嫌々ながら敬三は日銀副総裁の椅子に就く。時の総裁は結城豊太郎だった。1942年である。第二次世界大戦は既に始まっていた。
1944年3月・終戦の前年、敬三は日銀副総裁へ任命された。敬三は断固拒否した。時の首相は東条英機だった。
東条は半ば脅迫するように、敬三を自分の配下に取り込んだ。後にその時のことを敬三は「半ば東条に強姦されたようなもんだった」と語っている。
戦時下の日銀の役割は、赤字国債を発行し続けることだった。敬三は歯噛みしながら、日本経済が崩壊する姿を見つめ続ける立場へ追い込まれたのだ。そして敗戦。解任された敬三は、すぐさま三田綱町の自宅に引き籠った。

敬三の家が有った三田綱町は、現・東京都港区三田である。三田綱坂にその名が残っている。
渋沢家は1908(明治41)年に深川からこの地へ移転している。当初純和風の建物だったが、敬三はこれを1929(昭和4)年に英国王室風の洋館へ改築している。若き時代を過ごしたロンドンが懐かしかったのかもしれない。延べ面積330坪、部屋数は33室という豪邸である。

その隠棲する敬三を幣原喜重郎が尋ねたのは1945年9月。幣原は、敬三に大蔵大臣として政界に立ち戻ることを依頼した。
敬三は固辞した。しかし幣原の「君以外にこの未曾有の国難を誰が越えられよう」という説得に、敬三はその任を請けた。たしかに嘗て鬼神のごとく八面六臂に働き、大恐慌時代を乗り切った敬三にしか出来ないであろう局面に日本は墜ち込んでいた。
敬三の任期は半年に満たない。しかしその半年間で敬三は、膨大に積み重なった戦時国債の重圧、戦後の紙幣の暴発的な増刷に立ち向かったのである。文字通り命がけで、敬三は日本経済が崩壊を防いだのである。そして預金封鎖、新円切り替え、財産税の導入などの大鉈を続けざまに振るった。

ホイットニーがあの日(2月5日)驚嘆したのは、目の前で淡々とその"大鉈"について語る男が、その大鉈でズタズタにされるのが彼自身だったからである。ホイットニーは1月24日の幣原訪問の折にマッカサーから「自分の痛みは、自分より痛い者がいる時は、我慢できるものだ」と言われたことを知らなかった。もちろんその言葉が、敬三の耳に入ってたことも知らなかった。敬三は、自らが「生贄として弑(しい)られる」ことを覚悟していたのだ。

財産税導入時、敬三は自ら進んで三田の豪邸を物納した。そして同敷地内にあった執事用の小さい家に居を移した。その家は三部屋しかなく、便所も汲み取り式のボロ家だった。
大蔵省の職員たちは敬三が屋敷を物納すると聞いてこぞって反対した。大蔵省で一時買い取り、あとで買い戻してはいかがですか、という助け船を出した。GHQからも例外として功労者である渋沢は財産税から外せという指示が出た。しかし敬三は、これらをすべて断った。
「いや、僕は財産税というものを考え出して皆を苦しめた。その元凶がそんなことをするわけにはいかない。僕は真っ先に献納する。」と言い張った。
そして淡々と大蔵大臣辞職。辞職後、公職追放令により全ての公職も失って凋落のどん底に落ちた。
しかし敬三は飄々と、残されたわずかな土地にキャベツやサツマイモを植え野良仕事に励んだと云う。そして時折、訪れる者があると、その手製の野菜料理でもてなしたという。その表情に悲壮感はなく実に晴れやかで、朗らかだったと伝えられている。「ニコニコしながら没落していけばいい。」彼は折に触れてそう言ったと云う。

しかしそうした敬三の生きざまは、渋沢一族の人々には全く受け入れられなかった。彼は矢面に立たされた。
一族の一人である澁澤昭子は、後にこう言っている。
「ニコ没どころか、こちらは"いき没"でした。ええ、いきなり没落です。オヒナ様が床に転げ落ちたようなもんです。家にあるものをなにもかも売って五人の子供を必死で育てました。」

中で一番の深い奈落へ落とされたのは、妻・登喜子だった。登喜子は岩崎弥太郎の孫にあたる。財産税によって没落に追いやられた一族の係累だったのだ。二人は一年もたたないうちに離婚し、以降敬三は病症に伏せるまでの20年間、独りぼっちで生きている。

その死の数日前、妻の登喜子が病院を訪れた。二人が会うのは20年ぶりだった。鼻孔に酸素吸入のゴム管を入れられた敬三は、妻を見ると言った。「昨夜はとても苦しかったよ」
登喜子は涙を浮かべた。「さぞお苦しかったでしょう」そう言って、やせ細った敬三の手をさすった。
昭和38年10月25日午後9時30分、渋沢敬三は逝った。
こうして昭和の武士(もののふ)は去った。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました