見出し画像

パリ・マルシェ歩き#25幕間/ペール・ラシェーズ墓地

https://www.youtube.com/watch?v=DJYLW7blG7s

リュパブリック通りからメニルモンタン通りに入ると左側にペール・ラシェーズ墓地の壁がしばらく続く。
「どのへんが銃殺のあった壁の後ろなんて言わないでね」
「はい。
「それにしても大きい墓所なのね」
「1804年に設立された。命令したのはナポレオン・ボナパルトだ。ナポレオンはまだ皇帝と宣言していなかった、執政官だった。彼はこの年にパリ市内で新しい墓地を作ることを禁止したんだよ」
「あらま」
「欧州人は死者を燃やさない。土葬だったからな。墓地は疫病発生源になる。ナポレオン・ボナパルトは、パリの外辺部に幾つか大きな墓地を作るように命令したんだ。ペール・ラシェーズ墓地はその時に作られた」
「土葬だから?そんなに酷かったの」
「土葬されたのは金持ちの一部だ。あとは大きな穴を掘ってそこに放り込まれた。あるいは幾つも折り重なって置かれて、腐敗が終わるまで放置された。白骨になると集められた捨てられた」
「言葉が詰まる話ね」
「アマデウスを見ただろう?モーツァルトの最後。無縁死体置き場に捨てられただろ?」

「あ・思い出した。あれね・・あれはホントのことなのね」
「パリの人口が本格的な過密化するのは1700年代に入ってからだ。人が集まれば死者も増える。最初は哀惜の願いもあるから近在に墓所を設けたんだろうが、100年もしないうちにトンデモない話になっていたんだよ。100万人の都市ならば、100年で確実に100万人の屍体ができる」
「そんなふうに思ったことなかったわ。そうよね。・・それに土葬ですものね」
「パの市内にはサン・トゥスタシュ教会の傍にサント・イノサン墓地Cimetière des Saints-Innocentsというのがあった。いまのレ・アール地区だ。最初パリ市民の多くは死ぬとそこに運ばれて掘られた大きな溝に捨てられた。その溝が夏場は強烈な悪臭だったそうだ」

「気持ち悪い。でも誰かが面倒見ていたわけでしょ?」
「ん。墓守人な。それと臭いもそうだけど、腐敗した屍体が液化して地下に染み込むんだ。それが地下水へ混ざりこむ。当時は井戸が水を手に入れる手段だ。そこへ腐乱死体に蔓延った病原菌が溶け込むわけだ」
「気持ち悪い。そんな水はとっても飲めないわね」
「だからワインを飲む。あるいはワインを混ぜてアルコール殺菌した水を飲む。都市部に・・パリだけじゃなくてね、清涼な水は存在しなかったんだよ。しかしそれでも調理はこの水を使うわけだ。煮沸してもね、毒素は残る。町が過密になっていくと、どこの都市も伝染病が当たり前に蔓延してたんだよ。さすがにこれは対処せざるを得なくてね。サント・イノサン墓地は1780年に閉鎖されたんだ。市内に広がるペストやコレラみたい伝染病を抑え込むためにね」
「埋められた人はどうしたの?」
「掘り返して他の墓地に移された。ペール・ラシェーズ墓地が使われた。モンパルナス墓地もそうだ。
パリの南東部にあるイヴリー=シュル=セーヌ墓地 Cimetière parisien d’Ivry。モンパルナスの丘の裏にあるサン=ヴァンサン墓地Cimetière de Saint-Vincent。パリの北東部にあるパンティン墓地などが次々に19世紀になって作られたんだ」
メニルモンタン通りを歩きながら、道に沿って並ぶ小高いペール・ラシェーズ墓地の長い壁を見つめていた嫁さんが言った。
「こんな風に。壁で囲んでしまうのは、その頃からの慣習かしら・・」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました