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小説特殊慰安施設協会#50おわり/変転そして終幕へ

ところが。3月末日の給料日、高松は豹変した。給料と共に慰安部社員の殆ど全員へ、解雇通知の紙を配ったのだ。
「慰安部廃止につき本日をもって解雇を申し伝える」というものである。封筒の中には、3月分の給与と4月分が入っていた。 
「どういうことだ!これは。」と怒り出す者もいたが、大半は慫慂とこれを受けた。たしかに仕事は無い。慰安部に残っている仕事は手仕舞いの片付けだけだ。それも大半は、罹病した娼妓たちに、因果を含めて病院からも追い出すという汚れ仕事だ。やりたい仕事ではない。
慰安部の社員は、大半が給与を受け取ると自分の机から私物をまとめ、それを手にして事務所を出て行った。・・その中にはヘレンの姿もあった。
ヘレンは呆然としていた。なぜアタシまでクビになるの。アタシはGHQのペットよ。アタシがいないR.A.A.なんてGHQは認めない。高松部長はきっと私にもクビ通知が来たことを知らないのだと思う、何かの間違いだと思う。聞いてみよう。
しかし。その日、高松の姿は無かった。ヘレンは、ブツブツと言いながらも、他の社員と共に事務所を出て行った。もちろん、彼女が復職することはなかった。

この慰安部解散劇だが、あれほど行動的に采配を図っていた高松の姿はその日、無かった。前面に立って動いたのは大竹副理事長とその舎弟たちだった。本社でも慰安所の後片付けも吉原病院も、すべて強面の男たちがやった。 そして閉鎖した慰安所に有った備品類はすべてそのまま行方不明になった。

特殊観光施設協会R.A.A.は1956年、日本観光企業という株式会社を興す。そして此処にR.A.A.が持っていた全ての動産不動産の権利を渡した。宮沢・高松・小森など大半の役員は、自動的に日本観光企業株式会社へ移行した。そして半年後R.A.A.は解散。何もかもが無くなった。
この解散と共に、エビスヤ・ビアホールは閉店。店舗はそのまま大日本ビールへ引き渡された。今のライオンビアホールとなる。小美世の倅、ゲンはこのときに退社している。6年の奉職で、それなりの地位になっていたが、ゲンは潔く身を引いた。そして新橋にほど近い土橋の近くの裏路地で「黒猫」という小さなバーを始めた。

林譲が全身全霊を傾けて作った「キャバレー・オアシス・オフ・ギンザ」は、途中から米兵専門のキャバレーではなく、日本人も入れる施設になっていたが、これもまた同協会解散と共に閉店した。松坂屋は何事も無かったように、同フロアをすべてデパートの売り場へ戻している。ちなみに、松坂屋社史には、此処に「キャバレーがあった」ことは書かれていない。
そして日本観光企業だが。その後何回か社名変更しながら現在でも銀座に居を構えている。RAAと銀座の地縁は、今でも地下で途切れることなく続いているのだ

さて。林譲である。
林譲はR.A.A.辞職後、日本橋で米兵向けのお土産物を扱う七星物産という貿易会社を始めた。もともと三井物産で働いていた林譲にとって、貿易業は住み慣れた世界である。しかし業績は思ったより振るわなかった。仕方なくR.A.A.で働く直前までやっていた喫茶店を再開するが、これも立ち退き問題で裁判沙汰になり閉鎖を余儀なくされてしまった。
R.A.A.辞職後の林譲は不運続きだった。
その不運との戦いで林譲は疲弊した。体調も良くなかった。もともと悪かった脚も一段と悪化した。
その林譲の不運と対応するように、林譲の女房が当時大流行していた易断にハマった。夫婦仲は急速に悪くなった。そして最後には、女房が間男と遁走して、二人の間は終わってしまった。
二人の間には、三人の子供がいた。上の二人は成人し、独立していたが、一番下の子はまだ幼かった。女房はその子を置いて遁走したのだ。
林譲は憔悴した。それでも子供を支えて生きなければならない。しかしまだ幼かったので、その子を置いて働きに出るわけにもいかなかった。脚の具合も良くなかった。

林譲は、玄関に「英語、教授いたします」と張り紙を試しに出してみた。驚くことに、習いたいという人がすぐに表れた。近所の学生や会社員たちである。林譲の英語は、海外経験に裏付けられた本物の英語である。評判が評判を呼んで、たちまち受講者は一杯になった。
越えられない試練を神は人に与えない。
降り続ける雨も、いつかは止む。長い闘いの末。それも・・打ち続く負け戦の末。林譲は英語教室という仕事に出会った。
女房が残して言った幼子と共に、ひっそり生きる林譲は、ここでようやく小さな幸せに出会ったにちがいない。

さて。もう少し林譲の話をして、このものがたりを終わりたいと思う。 英語教室で生計を立てるようになった林譲に、ある日、若い女性が訪ねて来た。そして「手紙を書いていただきたいんです」と言った。
林譲は驚いた。居間に上がらせて話を聞いた。彼女は米軍向けの施設でウェイトレスとして働いていたらしい。そこで一人の米兵と出会い、恋に落ちたという。しかし米兵は任期を終えると帰国してしまった。その折、連絡をくれと住所を残して言ったのだという。
林譲は暗くなった。R.A.A.時代にダンサーたちがよくしていた話と同じだ。兵隊が残すのは、大抵出鱈目な住所だった。
それでも林譲は真摯に代筆をした。若い女性は何度も何度も頭を下げて帰っていった。住所が嘘じゃなければいいが・・林譲はそう思った。
ところがである。一月以上経ったある日。アメリカから手紙が届いた。あの代筆をしてあげた若い女性からの手紙である。おかげさまで、彼とアメリカで幸せに暮らしているという手紙だった。
その手紙を読みながら、林譲は号泣した。
僕が生み出した、たくさんのダンサーたち。 あのダンサーたちの中の何人が、いま幸せを掴んでいるだろうか? 僕は、僕の不運をダンサーたちに分けただけだったのではないか?
彼は、喧騒と嬌声とジャズに溢れる松坂屋地下の「オアシス・オフ・ギンザOASIS OFGINZA」を鮮々と思い出した。 あの店は、ダンサーたちにとってOASISだったのか・・

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました