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東京散歩・本郷小石川#18/良家大家が立ち並ぶ本郷小石川#02

本郷小石川周辺は、江戸時代①寺社②大名屋敷③下級武士の地域とされた。江戸城を警護するためである。
明治の御代になると、幾つかの大名屋敷が明治の重鎮の手に渡った。幕下に在った下級武士は帰る郷もなく、幾ばくかの冥加金をもらっただけで武士という身分を失った。彼らの住まう地域はより貧しくなった。
それが、樋口一葉が赤貧のうちに暮らした地である。一葉は「うつせみ」をこう書きだす。

「家の間数は三畳敷の玄関までを入れて五間、手狭なれども北南吹とほしの風入りよく、庭は広々として植込の木立も茂ければ、夏の住居にうつてつけと見えて、場処も小石川の植物園にちかく物静なれば、少しの不便を疵(きず)にして他には申旨のなき貸家ありけり、門の柱に札をはりしより大凡三月ごしにも成けれど、いまだに住人のさだまらで、主なき門の柳のいと、空しくなびくも淋(さび)しかりき、家は何処までも奇麗にて見こみの好ければ、日のうちには二人三人の拝見をとて来るものも無きにはあらねど、敷金三月分、家賃は三十日限りの取たてにて七円五十銭といふに、それは下町の相場とて折かへして来るは無かりき」
とは書くが、家の前にはドブ川(東大下水)が二がれ、後ろには剥き出しの崖が立つ陋巷の地だった。

日記からその様子が窺える。
一葉の死後、その陋家には森田草平が住むが、明治45(1910)年に起きた崖崩れで全壊して今はない。

あるクラス以上の直参旗本は丸山福山町などに住んでいた。現在の西片一丁目辺りである。ところが彼らの多くは、明治の御代になると勝海舟に同道されて静岡へ転居してしまう。そのため沢山の中堅どころの武家屋敷が空き家になった。こうした空き家に、東京大学(旧前田家上屋敷へ移転)で教鞭を取る知識人や維新政府の高官が住んだ。
どうだろうか?町の貧富がはっきりと二極化している様子が思い浮かばないだろうか?

この時代の流れに敏感に反応したのが旧備後福山藩主の阿部家だった。明治20年ころから阿部家は、大規模な高級賃貸住宅を丸山福山町に隣接した西片町へ企画した。これが大当たりした。そして、この阿部家の大規模高級賃貸住宅建築が呼び水となって、本郷台は官吏や文化人の集う街となっていく。崖上の山の手・屋敷町として大いに発展する。あの辺りは戦災で燃えなかったから、今でも往時の雰囲気を守っているので、ぜひ散策してみてください。ちなみに夏目漱石もこの地に一時暮らしていた。

この阿部家の「大規模高級賃貸住宅帯」という発想に強く影響を受けたのが、旧三菱財閥三代目岩崎久彌である。彼は祖父岩崎弥太郎が手に入れていた六義園(徳川五代将軍綱吉の側用人柳澤吉保の下屋敷)の周辺を分割販売し、ここに「大和郷」という「大規模高級賃貸住宅帯」を産み出している。・・この大和郷には多くの著名人が居を構えた。現在でも「大和郷会」という住民組織があり、同地の品性を保っている。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました