見出し画像

日本国名の由来を追って#07/ユダヤ人にしか見えない千葉県芝山町の古墳から発掘された埴輪

さてさて。史料の森を歩くとき、いちばん心しなければならないのは、それが迷宮の森だということです。瑣末に足掬われると、いとも簡単に帰る道を見失う。その道の専門家でさえ陥る罠ですから、ましてや素人探検家は尚更です。
いま、僕は日本国の始まりの痕跡を追って中国側/半島側の史料の森を彷徨おうとしているわけですが、その前に一歩下がって、鳥の目で森を見つめてみたいと思います。
・・最初に添付した写真から。
千葉県芝山町の古墳から発掘された埴輪です。見たとおり、外国からの移植民を形とって作られたものでしょう。髪形も帽子も極めてユダヤ的/西欧的です。
もともとの僕が日本国の成立を考えてみようと思ったのは、この埴輪を見たことからでした。
http://www.town.shibayama.lg.jp/0000001838.html
・・どうでしょうか? 僕には彼らが倭人には見えないのです。
僕はこの実物を見たとき、鳥肌が立ちました。極東の一番外れに、民族はどう吹き溜まっていったのか?
彼らはどんな道を辿って、この島に辿りついたのか?なぜ、故郷を棄ててやってきたのか?

宋書は、半島に有った百済について、前身は秦韓(弁韓とも書く)だと書きます。魏志は、秦韓(弁韓とも書く)の民は、万里の長城の苦役に耐え兼ねて逃亡した人々であると書く。そして「のち彼らは日本へ渡来した」と続ける。面白いですね。中国側にも日本への渡来を語る史料が存在しているのです。
彼らは遥か西から、ユーラシア大陸を跨ぎ、中華中原に至り、そして朝鮮半島へ流浪し、最後は日本列島へ渡るのです。
・・なぜか??
それを思うと、心が騒ぎます。

彼らは技術集団だった。
マルコポーロは、長安の傍らにユダヤ人の村が有ったと書きます。彼らは技術者集団であり原始キリスト教徒だった。たしかに万里の長城設営のために彼らが狩り出された可能性は高い。

そして宋書は、東海の島に有った倭国に紀元4世紀ごろ、乱が有ったと書く。それを総べた民が有ったと。
日本書記を見ると、大陸側から渡って来た渡来人は、大きな集団が三つあったことが窺えます。
秦氏、東漢氏、西文氏の三群です。
全てが朝鮮半島から渡ってきていますが、朝鮮民族かというとそうでもない。源流は中国から来た一族のようです。
何かの理由で中国から朝鮮半島に入り、それぞれ同地で一家を成した。しかし当時、朝鮮半島は動乱に追われて幾つもの中国本土からの亡命政権が成立しており、新羅/高句麗/百済は相食み、そこへ新しい勢力が北から侵攻し壮絶な殺し合いが続いていました。それに敗れた人々が逃げてきたと見るべきでしょう。

さて。秦氏ですが、日本書記には「秦氏は百済から渡来した漢人」とある。
日本書紀 巻第十 応神天皇紀にこうある。
『十四年春二月、百濟王貢縫衣工女、曰眞毛津、是今來目衣縫之始?也。是?、弓月君自百濟來歸、因以奏之曰「臣、領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒、皆留加羅國。」爰遣葛城襲津?而召弓月之人夫於加羅。然、經三年而襲津?不來焉』
おそらく入植者の大半は"漢人とそれに随行してきた人々"だったと見るべきでしょう。ちなみに弘仁6年(AC815)に編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」によると、融通王(弓月君)は秦始皇帝の子孫とある。
秦の始皇帝の母は胡姫でした。シルクロードを超えてやって来た女性だった。始皇帝自身も金髪碧眼だったという異説もあります。ともあれ日本国内で隠然と力を持っていた秦氏は、朝鮮半島人ではなく漢人でもなく西洋人の末裔だった・・と云うことです。秦氏の中にかなりのユダヤ人が混ざっていたことは、間違いないでしょう。
十五代応神天皇の時代(AC300~400)に、秦氏は人民10,000人を引き連れて渡来したらしい。
弓月君(秦氏)は渡来すると、その拠点を豊前国に置きます。10,000人の大所帯ですから朝廷があった軽島豊明宮(現・奈良県橿原市大軽町)に全員が住むわけには行かなかったのでしょうね。以降、摂津国、河内国(寝屋川市太秦)、大和国、山背国葛野郡太秦、山背国紀伊郡(伏見)などに拡がって行きました。

日本国の組成には、深く渡来人が関わっていたことは間違いない。そして彼らは、日本列島内に安定を得ると、俄然朝鮮半島への逆襲を試みます。
宋書に登場する東海の島倭国から遣使ですが、451年(嘉28)の遣使は「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されています。つまり宋は東海の島にある倭国が朝鮮半島にあった諸国を征服したと認めた・・のです。
破竹の勢いで、渡来した人々がその勢力を伸ばしたということでしょう。

此処で引っかかるのは、では彼らは自らを何と言ったか。
「倭」か「YMAMTO」か。
YAMATOは音で有り、漢字はない。
僕は、彼らは自らを最も大きな倭国である「大倭」と称したのではないかという仮説を立てたい。
「大倭」は、蔑称である倭を嫌い「大和」に転じ得る。
「大和」を以てYAMAMTOの当て字とした可能性は高いと僕は見ます。
いかがでしょうか?

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました