見出し画像

黒海の記憶#03/ルーシ人


Spitterの50リューベタンクを背負って黒海を縦断した話の続きを少ししたい。
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国からウクライナ共和国へ独立宣言した直後の話である。おそらく弊社がオデッサから西へ数10km離れた川辺にある製粉工場の一部リニュアルを請けたのも、この独立宣言があったからだと思う。しかし社内には猛烈な抵抗があった。1986年4月26日からまだ大して時間が過ぎていない。そのうえ責任を取るべきソ連が崩壊し、チェルノヴィリは未だブラックボックスのままだったからだ。「そんなところへ重要な技師を派遣するのか!」という議論である。しかし弊社代表は頑固だった。「パンがなければ民は飢える。われらが向かわなければ民は飢える」と。

・・国家とか国境とかにある種陶酔感を抱く人々は、この話に戸惑いを抱くだろう。
僕らは商人だ。機械を売る商人だ。国境は鳥のように雲のように跨ぐ。そして交易が、最大の国家間戦争の抑止力であることを知っている。EUを見てごらん。欧州連合が生まれて以来、あの地域にはただひとつも国家間戦争は起きていないんだよ。これが商いの価値だ。だから望む者には誠意をもって我々の知恵と技術を売る。真似されても盗まれても。真似されたら・・盗まれたら・・もっと優れたものを作る。

・・それにしても工場は鉄くずの残骸のような錆びだらけの塊だった。見るなりウチのスタッフが言った「全部、ピカピカに磨けば、それだけで動くぜ」
僕に宛がわれたのは工場内にある宿泊設備だった。ベッドまで緑青の臭いがした。本社との通信は、当時ようやく実用化してきたメールを使用した。通信は電話の受話器にカプラーを被せてピーズーカーとやった。ところがしばらくすると、これが差し押さえられた。アヤしい・・というわけだ。まだウクライナにはロシア時代の血の残滓が残っていた。

さて。ウクライナだが・・始まりはキエフ(ルーシ)大公国である。スラブ族とフン族の地だ。異教の地である。
この地にキリスト教が入ったのは10世紀に入ってからで、以降中世ヨーロッパで最も隆盛を誇った。しかし1200年代に入るとモンゴル帝国の攻略を受けて、実質解体に至った。その後紆余曲折を経てリトアニア大公国とポーランド王国に併合されている。
しかしその血は、スラブ族とフン族を継ぐルーシ人である。誇りと名誉を最も貴ぶ人々だ。
工場で付き合う技師たちも殆どがルーシ人だった。その性格はマジャール人に近似している。弊社の金髪碧眼の人々は今1つ彼らに馴染まなかったが、僕自身はかなり彼らと近しい精神世界だったので、言葉の壁を越えて強い仲間意識を抱いた記憶がある。

彼らと休み時間に通訳を介して話をしているときに、ハッと思ったことがある。それは彼らが指す《海》Moreとは黒海なのだ。
なるほど!と思った。ウクライナ語ではチョールネ・モーレChorne Moreなはずなのに、彼らは単にMoreと言った。
「そうか、あのタンクはMoreを使って運んだのか?!」と・・
彼らと話せば話すほど、僕は黒海とその周辺の国々に強い興味を抱くようになった。
もちろんそれは、地中海に繋がる最も近しい《海》としての黒海である。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました