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葛西城東まぼろし散歩#33/葛西葛飾なつ時雨なつ時雨#03

昭和60年(1985)3月に出版された『増補葛飾区史』上巻の「はじめに」にこうある。
「皇城地から10キロの地点に位置する本区の地域は長い間,典型的な都市郊外の農村であった。区の北部を通る水戸佐倉の幹線道路が江戸と近隣地域を結び,それらの道路沿いには町並みがわずかに形成されていた。しかしつい五〇年ほど前までは,これらの地区を除き,見わたすかぎりの田圃とこれに付随する湿地や池沼が散在し,葛西三万石の米産地といわれたころの田園風景がそのままみられた。」
まるで時間のバルーンに載って葛飾を見下ろしたような・・そんな幻視を僕はこの「はじめに」から受けてしまう。

東京(江戸)を東に置く武蔵国を括ってみると・・それは東西に長く、西端は細く、東にいくに従って広くなり、旧利根川・荒川・多摩川が流れ込む江戸湊(東京湾)に至る地域だ。標高は西高東低で、西の外れには雲取山(海抜2017m)がある。さらに言葉(分類)で括ってみると‥西から関東山地/多摩丘陵/武蔵野台地/東京低地となる。
武蔵野台地は、幾つかの枝を広げて江戸湊に隣接している。江戸(東京)は武蔵野台地と東京低地の境目に出来上がった都市で、沢山の丘と沢を持った起伏豊かな町だ。台地部と低地部は、ほぼ200~300mの標高差を持つ。
そして東京低地部は、そのまま下総に繋がる。・・その分かれ目は人為的で地勢ではない。

武蔵国に隣接する下総は葛飾郡と呼ばれていた。下総は11の郡に分かれていた。葛飾郡は武蔵国の境目に面していて南北に長い。下総国府によって管理されていた。
「クニとして関東地方は、近畿からの中央政権が入りこむ前から既に栄えていた。武蔵国も常陸国もだ。中央政府が関東に入ったのは房総からだったという話はしたよな?日本書紀によると、日本武尊は上総に入ってる」
「上総のどの辺?」
「諸説はある。三浦半島から船で東京湾を渡ったと記紀にはある。三浦半島側の走水から出て、到着地は八剱八幡神社の近くか三舟山近く。あるいは金谷神社近く、みさご島近くあたりだったようだ。武田祐吉先生の書きおろしにはこうある。
『そこより入り幸いでまして、走水の海を渡ります時に、その渡の神、浪を興たてて、御船を廻もとほして、え進み渡りまさざりき。
自其入幸。渡 走水海之時。其渡神 興浪。廻船。不得進渡』
「これじゃ、どこだか判らないわね」
「ん。判るのは三浦半島側の走水だけだ。ただ類推できるのは、東征後、中央から海上ルートで上総に入るときは走水海岸から房総側の大前か天羽に渡っていた。だからおそらく同じ道だろうな。いずれにせよ、この方向から関東は中央政権の管理下に入った」
「だから・・総の国は、太平洋側が上/上総。陸地側が下/下総なのよね。何度も聞いたから憶えちゃった」
「中央に向かって走る列車を"上り"地方に向かって走る列車を"下り"・・あれと一緒だ
「ということは、上総の方が栄えていたの?」
「当時のロジスティックは水利が中心だった。交易に大河や海が必須だったんだよ。当時の房総半島は香取の海が大きく広がっていてね、これが大きく役に立ったんだと思う。その香取の海の北と南に鹿島さんと香取さんが有ったんだ。二つの大宮か香取海を加護していたんだよ。
ところがだな・・国府を作ったのは下総だった。飛鳥時代後期だ。」
「今の市川市でしょ?・・どうして上総に作らなかったの?」
「これもロジスティックだろうな。ただしこっちは交易というより兵站が理由だ。大量の軍兵を中央から送り込むには海上からはムリだ。どうしても陸路が要る。武蔵野国が東海道に替えたのも、その為だ。それも山岳地帯を抜けないで速やかに移動できる陸路。それを開発し、繋ぐために国府台がハブとして増設されたんだよ。だから下総・市川だったんだよ。市川には、すでに常陸の国やそれより北のクニと繋がる街道が有ったからね。それに相乗りしたんだろう」
「そんなに早くから街道は有ったの?」
「ん。牧馬が始まっていたしね・・それに葛飾の地だ。常陸国との間に険しい山道はなかったんだろうな。」
「葛飾??」
「かつしかという名前は古いっていっただろ?葛は、かずらのこと。葛が生え並ぶ比較的なだらかなところ。飾は「低地」という意味でもある。眺望の利く『打關きたる暖地』というところだ。『天然なる奇麗にして眺望いわんことなし』と言われた所だ。その景観は、最初に書いた『増補葛飾区史』上巻が言うところの『見わたすかぎりの田圃とこれに付随する湿地や池沼が散在し,葛西三万石の米産地といわれたころの田園風景』が上古から守られていたに違いない」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました