東京ことば散歩1-2/民主的な首都圏語?
そしてこの新しい東京語である「首都圏語」を見つめていると、もう一つとても大きな特徴があることに気が付く。
それは敬語が曖昧なことだ。たとえば、一定の距離を置かなければならない人間関係の場合は、簡単に「です・ます」を使用して済ませる。複雑な敬語体系は原則的に持たない。しかし「です・ます」を使ったとしても、可能な限りフランクな雰囲気を失わないようにする。
都市圏語の原型である東京語の場合「親しき仲にも礼儀あり」が厳守されていた。たとえば・・知り合いのお宅へおじゃますれば「ごめん下さいまし」だった。この語尾の"まし"は"ませ"の東京弁。
これに「いらっしゃいまし」を返す。
お土産を持っていけば、それからお茶受けをだす
「おもたせだけど」と返す。・・そういや、この"おもたせ"という言葉、久しく聞かなくなった。佳い言葉なんだけど。
「おや、おかまいなく」と返すけど、ぜんぜん普通に"おかまい"されるつもり満々で、もし"おかまい"しなかったら「あスこンちは、白っ茶のひとつも出さない」と言われちまう。・・白っ茶ってのは、出がらしのお茶のことね。
こうした儀礼のあとに・・「ところでさ」とざっかけない言葉になる。これが東京スタンダードだった。東京人にとって敬語は、素養であり処世だったわけだ。
首都圏語にはこれが無い。すべて「です・ます」で済ませてしまう。
つまり、とても「民主的」な言葉なのだ。
民・主的・・なんとも舌触りが悪い言葉だ。民に主体があるという意味なんだろうが、その民に正対するものは官なのか?それとも王なのか?民でない人がいるのか?ならば人ではなく「もと犬」か?噺のネタじゃあるまいし。それとも宇宙人なのか?しかしこれにも「人」の文字がついてるくらいだから、ホントは「民」の一部なのかもしれない。
たしかに先の大戦以来、日本の支配者のままでいる米国は/米国民は「フェア」という言葉を好む。しかしこれは「平等」と同義語ではない。
すべて何もかも平等とするのは、いくら命令されてモノマネしても、本邦には馴染まない・・ものだと思うのだが、まぁあまりその話へ足を突っ込むのはやめておこう。
平等=善。不平等=悪という図式の話は此処ではしない。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました