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小説特殊慰安施設協会#07/1-2 銀座一ノ七

翌朝は朝から雨だった。
出がけに、小美世は黒塗りの蛇の目傘を千鶴子に手渡した。
「ごめんね。チヅちゃん。傘はこんなのしかないのよ。ゲンの奴は雨降ったってそのまま飛び出しちまうしね、傘はあたしのしかないのよ。」
「ありがとうございます。でもこんな素敵な傘・・」千鶴子は戸惑いながら、傘を受け取った。
「チヅちゃん、着物が似合うから、ほんとはね。蛇の目なら和服なんだけどね。」小美世は言った。千鶴子は小さく笑った。昨日も今日も、千鶴子の着るものは出かける前に小美世が揃えておいたものである。今朝も鼻歌まじりで嬉しそうに小美世が支度するのを見ている。
「ゲンちゃんは?」
「朝早くから用事が有るって出てったわよ。なんかチヅちゃんと同じ会社で働くんだって?ほんと?」
「あ。私も聞きました。」
「びっくりしたわよ。あいつにはビックリさせられっばなしよ。まったく。」
「いってきます」と家を出ると、千鶴子は木挽町を抜けて柳通りに向かった。昭和通り沿いの三十軒掘りまでの民家は何処も彼処も燃え尽きていた、その焼け跡にトタンを柱で支えただけのバラックが並ぶ。雨が容赦なく叩き付けていた。燃えた人、燃えなかった人の明暗は激しい。

半壊する銀座デパートを左に曲がると、左側に服部時計店、右側に松屋が見える。大半のビルが焼け落ちているのに、この二つのビルだけは殆ど無傷だった。占領後、接収する時のために、この二つのビルは爆撃目標から外されていたのだが、そんなことを知る由もない、千鶴子には何とも不思議な光景に見えた。
四丁目の交差点を渡ると、東側も西側も瓦礫の山である。そして少し先の松坂屋が同じくほとんど無傷で建っている。これもまた不思議な光景だった。
松坂屋の前を通って交詢社通りを渡り、大日本ビールの隣が特殊慰安施設協会だ。
千鶴子が出社すると、林穣が出社していた。その机の上に千鶴子が昨日帰りがけに置いた書類が置いてあった。
「おはようございます。」
「おはよう。赤入れときましたよ。先ずこれを直してから、次の仕事にかかってください。」
林穣が手渡してくれた書類は大半が修正で真っ赤だった。千鶴子はその書類を手に俯いてしまった。
「申し訳ありません。」
「気にする必要はないです。みんな初めての仕事ですからね。早く慣れてくれれば良いです。」
「ありがとうございます。がんばります。」
「がんばらなくていいですよ。あきらめないでください。」林穣は千鶴子を見つめながら言った。
「はい。あきらめません。」
「うん、おねがいします。私は誰も失いたくないんです。少なくとも私の部下はね。」
林穣は微笑まないまま言った。
千鶴子は一礼すると、そのまま自分の机に向かった。そしてすぐに目の前に置かれた仕事に没頭した。

実は、林穣は不機嫌だった。理由は昨日小町園で見てきたことのせいだ。あまり感情を表に出す男ではなかったが、その日ははっきりと態度に出ていた。千鶴子は目の前に積まれた自分の仕事に夢中で気が付かなかったが、他の社員は彼から声がかからない限り傍らに寄らないようにしていた。小町園で何があったか、他の社員も昨日の夜のうちに大森海岸に出向していた人間から聞いていた。だから余計になるべく林穣の傍には誰も行かないようにしていたのだ。

昼少し前になって、宮沢理事長が顔を出した。林譲はすぐに立ち上がって宮沢理事長の机の前に立った。林譲は足が悪い。しかし事務所の中で杖は使わない、たいてい机に手を当てながら移動する。しかしその時は杖を使って真っすぐと立った。
「理事長。お話ししたい。」林穣は厳しい声で言った。
「・・小町園のことかね。」宮沢が言った。
宮沢は大柄で、押し出しの強い体躯をしている。しかしそれが威圧感ではなく、包容力のに見えるのは、彼の人柄のためだった。
「そうです。昨日までの自殺者を把握されておりますか?」
「1名だ。昨夜は出なかった。失踪者は出たがね。」宮沢が机の上の書類を取りながら言った。

 小町園は米兵の進駐に合わせて、やっつけ仕事のように作られた慰安所だった。慰安婦は38名。高松が伝手を辿ってようやく集めた女たちだった。
「林君。慰安婦たちには普通より高い割り前を払っておるし、借金を背負ってる者については、その肩替わりもしてる。着るものも化粧品も相応以上のものを支給してる。それでも逃げ出すというなら仕方あるまい。そう思わんかね。当協会は廓ではない。我々は脱落者は追わない。嫌で黙って遁走しても、我々は女を責めたりはせんのだよ。肩代わりした金を返せとも言わん。嫌なら出ていけば良い。」

何日か前、抜身の日本刀を持った特攻隊上がりという若い男が怒鳴りこんできたことがある。その時、対応したのは林穣だった。片手に日本刀を持ち、鬼のような表情で仁王立ちする男の前に、林穣は杖をつきながら真っすぐと立った。
「我々も、あなたたと同じように国体維持のために奉職しているのです。戦争に負けたとしても守らなければならないものはある。それは日本人の純潔です。我々は、私利を求めてやっているわけではない。当局から依頼されて、この国の純潔を守るために滅私奉公しているのです。」
しばらく林穣を睨めつけていた男は「わかった」と言うと去って行った。
宮沢の前に仁王立ちする林穣は、まさにあの時の青年将校のようだった。
「林君、我々の仕事はこの国の民の純潔を守るための防波堤だ。多少の脱落者が出るのは仕方あるまい。」
「理事長。脱落者ではありません。自殺者です。」
「判った判った。林君、大きな声を出すのはやめたまえ。ではこう言いなおそう。多少の犠牲は仕方ない。」
「多少の?理事長。あの様子ではおそらく月内に半数はいなくなりますよ。」
林穣の予想は当たっていた。当初、小町園に集められた娼妓のうち、半数は自殺・病気・精神の失調によって、月末にはいなくなっていたのだ。小町園の女たちは、閉園に追い込まれるまで、次から次へと娼妓が入れ替わっている。
「いなくなれば補充すればいい。それは高松君の仕事だ。君の仕事ではない。君は君が書いた事業計画書どおり、君が担当する仕事をやってくれたまえ」宮沢は言った。「しかし林君。忘れちゃいかんよ。坂警視総監が我々に望んだのは、進駐軍のための慰安婦施設だ。汚れ仕事だ。綺麗事じゃ済まん仕事だ。君はそれを拡大解釈して、今の協会の絵を描いた。今の綺麗な協会の姿は、君が描いた絵だ。その綺麗な部分は君が責任をもって恙なく推進したまえ。汚れ仕事は高松君と私がやる。」
宮沢は椅子に反り返るように座りながら言った。林穣はしばらく無言だった。
「・・・判りました。私は慰安部の業務には今後一切関わらない。」
「構わんよ。そうしてくれたまえ。高松君からも昨日の夜に報告が入っとるよ。君が向こうで米兵と一触即発になったことがね。彼からも君には慰安部の施設に立ち寄ってほしくないという要望が出てる。」
林穣は思わず歯ぎしりをした。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました