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小説日本国憲法4-8/新橋を裂く凶弾

銃声がした。同時にガラスが壊れる大きな音がした。
隣の社長室からだった。
事務室の全員が跳び上がった。社長室のドアが乱暴に開くと、拳銃を手にした男が飛び出してきた。引きつった顔で周囲を見回すと、そのまま事務所を飛び出して行った。事務室にいた全員は凍りついたままだった。
はっと気を取り直した芳子が「義一さん!」と叫びながら社長室へ飛び込んだ。松田義一は執務机の向こうに倒れていた。窓ガラスが砕け散っていた。
「あなた!」
芳子はベタリと座り込むと縋るように義一を抱き上げた。
「タモツが・・」義一が喘ぎながら言った。「台湾に・・」
「誰か!救急車を呼んで!」
芳子が悲鳴を上げた。義一を抱きしめて、右手で胸の傷口を押さえた。その手のひらの間を縫って鮮血が噴水のように吹き上げた。
「あなた・・あなた!」芳子は狂乱した。
「ついに・・この日が・・きた。」義一が震える手で芳子の手を握った。
「光枝。もう守れない・・帰れ。いますぐ帰れ・・目白に。」義一は声を絞るように言った。急速に力が抜けていった。
「あなた!義一さん。・・置いてかないで!お願い。」
血だらけになった芳子が、義一を抱きしめて号泣した。

1946年6月16日。享年粗36才。松田義一凶弾に逝く。
警察と消防署救急班がきたのは、銃声から30分あまり経ってからだった。
芳子は義一を抱きしめて泣き続けていた。
事務所の前に出来た人だかりを掻き分けて入ってきた警官と救急員が、義一に縋りついて離そうとしない芳子を半ば強引に抱き上げ、救急車へ連れて行った。新生マーケットは騒然とした。人々が渾然としゃべっていた。
「どうしたんだ?!」
「松田さんが撃たれた。」
「撃たれたぁ?!」
「ああ、即死だそうだ。」
「誰が撃ったんだ。台湾人か?」
「おい・・俺たちはどうなるんだ?」
「ばかやろ!それどこじゃねぇだろ・・」
「そういや、台湾野郎の店、今日は一軒も開いてねぇぞ。」
「ちきしょう、知ってやがったな。店、ぶち壊してやる!」そう怒鳴ると、何人もの連中がその場を離れた。
「姉さんはどうした?」
「血だらけだった。」
「撃たれたのか?」
「わかんねぇ、でも歩いてた。」
「こりゃあ、大変なことになるぞ。」
その日、大半の店が早仕舞いをした。夜に台湾人たちの殴り込みがあるという噂が流れたからだ。松田組の若い衆たちが寝ずの番をした。その夜は警察も遠周りに新生マーケットを囲んだ。

松田芳子は、救急車で慈恵医大救急科へ搬送されたが、無傷であることが確認されると、そのまま愛宕山警察に身柄が移された。しかし松田義一の返り血を浴びて酷い姿になっていたので、警官に伴なわれて一度、芝の自宅へ戻り、入浴と着替えを済ませた。血塗れの髪を洗いながら、芳子はホロホロと泣いた。しかし、化粧を済ませ着替えをしたときは、キリッとした表情になっていた。
愛宕山警察で事情聴取を受けている間、芳子は決然とした態度を崩さなかった。
彼女は松田義一の最後の言葉「タモツ」という言葉、そして「台湾」という言葉を警官に知らせた。
「タモツ」とは、間違いなく松田義一が破門した男だ。上の名前は判らない。あのときは誰だか判らなかったけど、考えてみると逃げて行った「タモツ」は芳子も見知った顔だったようにも思える。芳子の話を受けて、警察は「その男を重要参考人として指名手配する」と言った。しかしその「タモツ」なる男は翌日、渋谷の台湾人部落傍らの公園で絞殺死体として発見。結局、警察は松田義一殺人犯を確定できなかった。

事情聴取が終わって、芳子が愛宕山警察を出ようとすると、入り口に小田部健吉と松田組の何人かの人間が待っていた。
「奥さん!」小田部がかけよった。「新生マーケットはどうなるのだが?おいの金は誰が返してぐれるんだが?」
芳子は、鋭く見つめた。そして冷たく言い放った。
「あとは私が仕切ります。どなたにもご迷惑はかけません。松田の遺志は、私が継ぎます。」
その強い言葉に、小田部はたじろいだ。
・・あなた。義一さん。ごめんなさい。私は目白には帰りません。あなたの夢を、みんなの夢を、命をかけて完遂します。芳子は、胸の中でそう叫んだ。

そして、翌日。思ったとおり、渋谷の華僑たちは徒党を組んで新橋新生マーケットを襲った。これを芳子は、西新橋と外堀通りの交差点あたりで、自分が先頭に立ち鬼神のように防いだ。その勢いに押されて、台湾華僑たちは這う這うの体で渋谷へ逃げ帰っていった。
怪我人を抱えて、芳子たちが新生マーケットへ戻ると、店主たちが拍手喝采でこれを迎えた。その足で芳子は、マーケットの中の台湾人が経営する店舗を見回った。何れも無人で、その店内は荒らされきっていた。
「姉さん、どうしますか?台湾人たちの店の後に入りたいと言ってる借主が、もういますが。あいつら良い場所を押さえていましたからね。」芳子の後ろにいた松田組の若い者が言った。芳子は長考した。そして言った。
「綺麗に片付けてください。片付け終わったら、借主に連絡してください。混乱に乗じて貴店を襲った輩が居たことを重々お詫びいたします。損害については我々が補填しますから、ぜひご連絡ください。今後とも新生マーケットをお願いします・・と。」
「ほ・補填ですか?」驚いた声だった。
「ええ、松田ならそうしたはずです。無為な戦いは絶対に彼から仕掛けることはしないです。そしてこうした不測の事故も、彼は補填したはずです。」
「・・・」全員が首を下げて沈黙した。

愛宕山青松寺での葬儀には、新生マーケットの人々だけではなく、関八州親分の代理人ら。愛宕警察署長・港区井出区長。そして連合軍からホロヴィッツ大佐と、何とも前代未聞の参列者が集まった。喪主である松田芳子は黒い喪服でキリッと背を伸ばし、それら参列者の弔辞に一人一人に頭を下げていた。
その弔問客の中に同盟新聞社の今和泉局次長がいた。芳子が深々と頭を下げると、今和泉が言った。
「あの日・・小佐野主任が君をとんでもない所へ送り込んでしまったといった。しかし私はそれに輪かけて君をとんでもない所へ追い込んでしまった。」
「いえ。局次長。わたくしは幸せでございました。松田もそれが短い幸せになることを覚悟しておりました。わたくしは局次長のおかげで松田に出会え、とても感謝しております。」芳子は、今和泉の目をしっかり見つめながら言った。今和泉が言った。
「母が。もしよろしければ、戻って欲しいと言ってました。」
「ありがとうございます。浜田光枝は、お母さまにお会いしとうございます。でも・・松田芳子には、まだまだやることが沢山ございます。ぜひぜひ、お母さまに光枝は感謝しておりますとお伝えくださいませ。」芳子が言うと、今和泉が小さく頷いた。
芳子は一礼すると、他の弔問客へ挨拶を続けた。
ホロヴィッツ大佐が現れたとき、芳子はビクッと震えた。同道していたのが兄、浜田康弘と白洲次郎だったからだ。ホロヴィッツ大佐が英語で短い弔辞を言う間、兄と白洲は黙って芳子を見つめていた。ホロヴィッツの弔辞が終わると、芳子は深々と頭を下げてから英語で言った。
「ありがとうございます。私は夫の遺志を継ぐ覚悟でおります。必ず夫の夢を叶えて見せます。」それだけ言うと、そのまま次の参列者の方を向いた。そのすげない態度にホロヴィッツ大佐は肩をすくめて白洲と浜田康弘を見た。康弘は沈黙のまま芳子の後姿を見つめてた。その目は何とも哀しそうだった。ホロヴィッツ大佐は浜田に声をかけようとしたが、思い止まった。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました