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東京散歩・本郷小石川#08/本郷通りから視たもの

円乗寺の境内を出て本郷通り歩いた。気温はまだ24℃というところかな。一瞬このまま三田線で戻ろうかなとも思ったんだけど・・どっかでお茶したくて本郷側に出てみた。最近、間欠性跛行が相当進行しており、脊柱管狭窄が酷いので、長時間の散歩はきつい・・
弥生町の交差点を渡って赤門に向かって歩きながら思った。たまには本屋に寄るか・・でも大好きな泰雲堂が開いてなかった。結局「ルオー」まで椅子にありつけなかった。しかしどこも書店は元気ないなぁ~神田もそうだけど・・それでも何冊か無理やり買って「ルオー」に入った。
植草先生は本を買うと、それを喫茶店で破いた。要るページ以外はレッコしたんだ。んんん、あの勇気はもてないなぁ、まぁ読むに価しない本はそのままごみ箱へ捨てちゃうけど。
馥郁な珈琲を喫して人心地ついたところで、窓の外の本郷通りを見つめながら、再度心はトンビになった。
弥生町の交差点を通ってきたからね。視座は太古だ。

武蔵野台地は、起伏をうちながらも江戸湊に向かってゆっくりとなだらかに下っていく。
本郷台のあたりは、板橋から北区にかけて横たわる台地の東南の末端台地になる。海抜は20-30mくらいだろうか。東側が根津谷、西側が小石川谷だ。小石川谷の向こうに小石川台地がある。前述したように、この小石川谷が白山通りだ。根津谷に石神井川があった。今は流れを変えられて飛鳥山から王子へ抜けている。・・それでも
藍染川(谷田川)は残った。その流れが不忍池を作っている。その流れは暗渠となって見えないが、根津谷に沿って走る台東区との大きく湾曲する境は、この谷田川の残滓かもしれない。パリの「もうひとつの川」暗渠になってしまったビエーヴル川Bièvreを思いだす。上野台地との間は比較的広いので江戸湊の海岸線が深く入り込んでいた。

・・丘と海岸。となればヒトの営むところだ。この辺りもまた、太古、海からやってきた双胴カヌーを操る者ら、あるいは長く生き延びてきた太古の人々らが海の恵みを得て暮らしていたところである。僕らはその跡を「貝塚」として見ることができる。江戸湊(東京)の貝塚は、武蔵野台地の東南端、海岸に接するところに広く点在している。
日本の貝塚と言えば大森貝塚を発見したエドワード・シルヴェスター・モースEdward Sylvester Morseが有名だが、実は彼は2度目の来日から東大で教鞭を取っている。彼に刺激された若者たちが次々と武蔵野台地の東南端に散在する貝塚を発見していったのである。
こうした貝塚には多くの土器類も発掘できる。その外形に縄を転がして文様を付けたものが形式としてあった。それから「縄文式」という言葉が生まれた。

ところがこうした貝塚から発掘物のなかに、赤焼きの壺が見つかった。縄文土器は野焼きだ。しかし見つかった壺は藁や稲穂を被せて蒸すようにして作る赤焼きだった。その製法のために赤褐色のものが多い。
発見したのは東大の坪井正五郎/有坂鉊蔵/白井光太郎の三人、明治17年(1884)である。彼らはこの土器に対して発見した場所の名前・向ヶ丘弥生町から「弥生式」と名付けた。残念だが、重なる開発の勢いに巻き込まれて、第一号弥生式土器の発見場所はわからなくなってしまった。
現在、東大農学部と工学部の境に建っている「弥生式土器ゆかりの地」の碑が"発見の地"と書かれていない理由はコレだ。
昭和49年(1974)に東大構内にあった旧浅野地区の発掘調査により、二条の溝と貝層、弥生式土器等が発見された。現在これが「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定(昭和51年)に指定されている。
・・弥生式の「弥生」は本郷の丘「弥生町」が由来なのだ。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました