聖書の考古学/アンドレ・パロ
いま我が家は引越しでバタバタしてる。本がね、大変なんだよ。相変わらずね。で、書棚から発掘したアンドレ・パロAndré Parrotの書いた三冊の本を手にしながらしゃべってみたい。70年代、みすず書房が日本の"知"に大きく貢献していた頃に翻訳されたものだ。
パロは、ルーヴル美術館に在籍していたフランス人考古学者である。彼はオリエント世界を発掘し、それを系統だてて理論づけた嚆矢である。多数の論文を残しているが、みすずから出ている翻訳書三冊は彼自身による平易な解説書で、オリエント世界を見つめるのに、現在でもこれ以上の本は無いと云えよう。
パロの著「聖書の考古学p172」に以下の言葉がある。
「この物語は聖書を通じて一度しか記されていないし、また旧約および新約聖書の人物の一人としてこの物語にふれているものがまったく一人もいないことを指摘しておきたい。この留保はすくなくとも驚くべきことである。」
たしかにパロの云う通り「バベルの物語」は唐突だ。そして短い。幾つかの話の集合体である創世記の中でも「バベルの物語」は際立って短い。①人々が塔を作り②それを見咎めた神が③人々の言葉を複数にする・・という話である。多言語起源譚だが・・子細に無心に読んでみると、この話の不整合性・中途半端なことが気になり始める。
この話を書いたのは、その文体から間違いなく"J"だと云われている。"J"は紀元前950年頃に南ユダ王国に生きた祭司だ。
彼は①精緻に、塔が誰によって・何処でどのように作られたかを描く。文章量としては、この部分が多い。そして②神がこれを見咎める。なぜ神がそれを良くないと考えたかを短い言葉で書く。そして③言葉は乱され、人々は散るという話になる。
塔はどうなったのか? 途中で建造が止まったと書くが、その後は記されていない。"J"の関心は、精緻に描いた塔の建造から、いともあっさりと言語の多様化に移り、話はそこで終わってしまう。それどころか創世記そのものがここで止まってしまうのだ。
あまりにも唐突な物語の終幕だ・・と、僕は思う。まったく大団円の帰着点が「言語の多様化の説明」とは、此処に至る様々なエピソードが何のために積み立てられてきたのか、その理由が判らなくなってしまう。
たしかに「言語」は、ユダヤ人と神の間において、きわめて重要なパーツである。彼らにとって神との間を繋ぐものは「契約」である。人は「言葉」によって神と対話し、言葉によって契約を交わす。この神との関係はかなり特異で、他の宗教の殆どが「神との血縁関係」を教義の中心に置くのに対して、ユダヤ人は「言葉」を置いているのだ。アブラハムもノアも、モーゼさえ決して"神の子"ではない。神に選ばれし者だ。自分に血縁関係があると騒ぎだすのはイエス・キリストまで、誰もいない。
"P"司祭たちの書いた創世記の一番最初の部分にも「はじめにロゴス(日本語は光と訳す)ありき」とある。
アダムは。アブラハムは。ノアは。そしてモーゼは。神に声かけられて、神と会話している。では。。神は何語で話しかけたのか?ヘブライ語なのか?僕は、そう考えてしまう。
キリスト教徒たちは、この僕の疑問について、言葉の違う人々に神が話しかけ、人々は使っている言葉に関係なく全員がその意味を知ったというエピソードを新約の中に置いている。しかしこれは何とも後出しジャンケンに思えてならない。
少なくとも旧約聖書の中には、言語に関する話は、最終章「バベルの物語」に達するまで何もない。
間違いなく違う言語だったであろうエジプト人とノアの会話についてさへ、それには触れていない。
何とも、肌触りの悪いものを感じるのは僕だけだろうか?
"J"が生きた紀元前950年頃の南ユダ王国は、エジプトとメソポタミアを繋ぐ交易の交差点とも云える地域だ。ごく普通に"J"とその時代のへブル人(ユダヤ人)たちは、多言語の世界で生きていたはずである。おそらく"J"自身も多言語を駆使したに違いない。五書の中に描かれるオリエント世界もエジプトも色彩豊かで、具体性が濃い。ただの伝聞だけではこうはなるまいという文体だ。かなり深い知性に裏付けられた"J"は、絶対に「世界」を正確に知っていたに違いないと思う。
「バベルの塔」のモデルになったバビロンのジグラットについてもそうだ。彼が描く「バベルの塔」の話は、オリエントの人が描くジグラットの話に酷似している。というか「そのまま」だ。したがって"J"は、彼らがジグラットを建設する理由についても熟知していたはずだ。
バビロンの人々がジグラット(高い塔)を作る理由は、神の業を称賛...するためである。そして神の休息所をその屋上に設けた。だから高くなくてはならない。そして尖塔ではいけないのだ。彼らは神のためにジグラットを作ったのだ。自らの力を誇示するためではない。・・あれほど精緻にオリエントの人々が作ったジグラット譚を再現しながら、"J"が彼らの意図を知らなかったとは、僕には思えない。特に"J"の生きた時代は、ジグラットがまだ作られ補修されていた時代だ。もしかすると"J"は、同地に旅してそれを見ていた可能性さへ、僕は想像してしまう。・・ならば。やはり"J"は複数言語を使うヒトだったろう。僕はそう考えてしまう。
その"J"が、へブル人の誕生譚を・・アダムとエバの話を書くとき、彼は言語問題を書かなかった。なぜか。アダムとエバは全ての人の始祖ではなく、へブル(ユダヤ)人の始祖だからだ。へブル人がヘブライ語を話すのは当たり前で、あえて多言語が"有る"ことを語る意味はないからだ。失楽園後のアダムの子らもへブル人である。創世記はへブル人が広く世界に広がっていく物語である。したがって言語は一つで良い。
余談だが・・アダムの死については創世記にあるが、エバについての記述はない。エバは失楽園後カインとアベルを産んだ後は、物語から喪失してしまう。
"J"は、へブル人の物語を綴りながら、おそらくずっとこの「聖書を単一言語世界の物語とする」脆弱性に不安を持っていたはずだ。彼の生きる世界は多数の民族が夫々の言葉を持ち、夫々の神を持っていた時代である。彼はその時代を生きながら、単一民族単一言語の発展史を、絶妙なバランスのうちに描かなければならなかったのだ。
このへブル人発展史として"J"と、その後に続く"E"の書いた話を見つめると、やはり「大洪水時代」が大きな曲がり角なように感じる。神は、全ての生物を巻き込む「生命の清算」を行う。それがノアの物語だ。聖書はこの話の後に、如何に人々は分化し沢山の部族に分かれて世界へ広がったかを書いている。この記述は、創世記中最も具体的で現実に即したものとなっている。
そして、その後に「バベルの物語」が来るのだ。
こう見つめてみると・・バベルの物語が俄然違う話に見えてくる。
神は、不信心な人々の台頭に怒りソドムとゴムラを焼き、それでも結局は収まらない人々を大洪水によって殲滅してしまう。そして敬虔なへブル人の家族であるノアたちだけに世界を委ねる。しかし人々はまた神を見つめなくなる。神は「大洪水」の章で、もう二度とこうした徹底的殲滅はしないと宣言している。では。神は何をしたのか?
神は、ヘブライ語を使うへブル(ユダヤ)人と、そうでない人々を選別したことを"J"は、ここで書きたかったのではないか。ジグラットという異神を奉るための塔を通して"J"は、なぜゴイムgoyimが存在するのか・・その発生譚を物語の最後に置いたのだと僕は考える。神はゴイムが、神との契約の言葉ヘブライ語を使うことを禁止した。そう見るべきだろう。
バベルの物語は、神の息吹を得て生まれし者と、地(埃)のみで(ヒト以外の生物は神の息吹を与えられていない)生まれし者を、神との契約に使用された言語を拠り所に二別した物語であると見ると、"J"と"E"が、この話を聖書の大団円として置いた理由がきわめて明快に見えてくる。僕はそう考えてしまう。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました