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東京散歩・本郷小石川#16/荷風の小石川

幼少期を小石川台地で過ごした永井荷風の小品には彼の地をテーマにしたものが散見する。何れも暖かい視線で己の故郷を語っている。
「礫川禍祥記」という小品がある。
「いつしか白山御殿町を過ぎ、植物園に沿ひたる病人坂に出づ。坂の麓に一古寺あり。門に安閑寺の三字を掲げたり。ふと安閑寺の灸とて名高き艾を售しはこの寺なり。われら稚いとけなき頃その名を聞きてさへ恐れて泣き止みしものをと心づけば、追想おのづから縷々として糸を繰るが如し。
その頃植物園門外の小径は水田に沿ひたり。水田は氷川の森のふもとより伝通院兆域に連り一流の細水潺々としてその間を貫きたり。これ旧記にいふところの小石川の流にして今はわづかに窮巷の間を通ずる溝こうとなれり。
ああ四十年のむかしわれはこの細流のほとりに春は土筆を摘み、夏は蛍を撲ちまた赤蛙を捕へんとて日の暮るるをも忘れしを。赤蛙は皮を剥ぎ醤油をつけ焼く時は味よし。その頃金富町なるわが家の抱車夫に虎蔵とて背に菊慈童の筋ぼりしたるものあり。その父はむかし町方まちかたの手先なりしとか」と続ける。
ここで荷風の云う礫川は今の小石川(千川)のことだ。小石川界隈を大正15(1924)年に逍遥した体験を描いている。荷風は「四十年のむかしわれはこの細流のほとりに春は土筆を摘み、夏は蛍を撲ちまた赤蛙を捕へんとて日の暮るるをも忘れしを」と書く。40年前というと明治20年頃だろうか。古地図を見ると小石川谷の両側は幾つもの庭園が並んでいて、おそらく豊かな湧水がせせらぎを作っていたのかもしれない。夏は蛍も飛ぶほどの清流だったに違いない。

実は、太田胃散はこの地に興った企業だ。いまは千川通りにあるが明治のころは、この辺りの小川に水車を置いて薬を挽いていたという記録が残っている。
殆どの川が暗渠となり、ただの下水道になってしまったが・・その暗渠が水道橋の傍に黒い口を開けて、大雨の時は水を噴き出している。分水路の出口だ。

土地の姿は変える。しかしその本性は変え難いものだ。所詮ヒトの出来ることは限られている。街歩きをするとき、僕らは端々にそれを見る。・・いや限られてきたというべきか。覆い被されたとしても地祇の脈絡は消えなかった。消えていない時代をまだ生きている僥倖を喜ぼう。

水道橋駅そばに「スイング」というジャズ喫茶があった。
駿河台の「スマイル」や「響」まで脚を伸ばすことがない時は、此処に寄った。僕がドイツの会社に勤めたころは有ったと思う。しかし独立自営したころ(1995年ころ)には無かった。あるとき、「トニィ」レコード店へしばらくぶりに出かけた帰りだった。駅前のちょっと奥まったところにある「スイング」へ当たり前に入ろうと角を曲がったとき、忽然と消えてしまったそれに気がついて呆然とした記憶がある。
水道橋駅前の痛烈な思い出だ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました