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深川佐賀町貸し蔵散歩#07

スーパーの大きな買い物袋をブル下げながら佐賀町河岸通りを永代橋に向かって歩いた。永代橋ふもとの鋼板の横を通って橋を渡った。本当は反対側の歩道を行きたかったが、ここの交差点は信号がない。橋を渡ったら鍜治橋橋通りを我が家に向かって歩くつもり・・
「日本橋側から佐賀町へ橋がかけられたのは1698年(元禄11年)だ」
橋を渡りながらしゃべった。
「それが永代橋・・というわけ?」
「うん、橋は相川町・・いまより150mにくらい上流に架けられた。猛烈な利権だったに違いない。しかし架橋技術そのものは未だ未発達だったため、出来上がった橋は20年は持たなかった。隅田川に架けられた橋としては4番目のものだ。大きさは、長さが207m、幅は6.8mあった。かなり大型だが、所詮は木製だ。耐久性の限界はある。」
「落ちたのよね」
「ん。1807年だよ。富岡さんの祭礼に集まった人々の重さでね。500名以上の人が死んだ」
「橋ができて100年以上経ってたのね」
「ん。老朽化がひどかった。実は徳川幕府は架橋後20年目の1719年に橋の撤去を決めているんだ。維持費が大きかったからな。慌てた地元の町方が橋の存続を願い出たんだ。もうそのころには、蔵の町として佐賀町は機能してたからな。橋がないと困る。そこで民間管理として払い下げてもらったんだ。しかし維持費が思ったよりかかる。それなんで通行する者から1人当たり2文を徴収してる。武士は無料だったけどな。のちにこれは1文に下げられたけど、こうした橋の通行料は割とよくあったんだよ」
「でも、落ちた・・わけね」
「ん。それで幕府は永代橋のような大型な橋を民間に下ろすのは不可能と考えた。橋が落ちた後は、再度永代橋は幕府管理に戻っている」
「橋を壊すと言ってたのに?」
「ん。実は架橋の時、このあたりの土地は佐賀町を含めて、かなり広範囲に召し上げられたんだよ。魚獲れなくなっちゃったんだ。同時に、まだ幾つも残っていた入り江埋め立てが片っ端に埋め立てられたんだ。それで出来上がったこれらの土地が三井などの大店に払い下げられた。彼らは自分たちの倉庫をここに置いた」
「召し上げといて、開発してそれを売ったわけ?」
「ん。官吏のやり方は今も昔も同じだ。明暦の火事の話、したよな。あれで寺社と旗本屋敷の住み替えが大きく実施された。木場は対岸の佐賀町の東側に移された。深川向島本所あたりは未だ未だ葦っ原は残っていたが、それでも今見る形に近い位の開発は進んでいたんだ。町屋も自動的な出来上がっていって、隅田川を渡った大江戸番外地も、大きく変えつつあった。大きな変革は代官所管理から奉行所官吏の地域が出来てきたことだ」
「代官所と奉行所は違うの?」
「代官所は、所領における政務・支配を行うセクションだ。公領の場合もそういったが、まあ行ってみれば市役所みたいなものだ。奉行所は幕府領内町方の行政・司法を担当した。幕諸藩にもこのセクションはあったけど、町奉行というと、江戸だけだった。つまり下総は代官所管理だから隅田川の向こうは代官所のものだったンだが、開発が進むと向う岸にも奉行所管理の地がポツポツとでき始めたんだよ」
「佐賀町は奉行所管理だったの?」
「ん。佐賀町から木場がもっと奥の今の木場あたりに移動すると、八丁堀や霊岸島あたりに倉庫を置いていた日本橋・京橋の大店が競って此方に移ったんだ。木場を設営したときに縦横に運搬用の運河を併設したからな、八丁堀や霊岸島あたりよりロジスティック的に至便だったんだ。
品川沖あるいは羽田沖あたりで大型船から小分けされた荷物は、猪牙舟で海岸線沿いに隅田川に入り、直接佐賀町河岸屋敷の蔵に並んでいる倉庫に運び込んだんだ。ただの漁師町・材木置き場だった佐賀町はあっという間に"蔵の町"になったんだ」
嫁さんが永代橋の欄干から今歩いてきた佐賀町のほうを振り向いた。
「その面影が、あの川岸に並ぶ倉庫街というわけ・・」
「そうだ。江戸の需要を支えたのがこの隅田川っぺりだったというわけさ。それはそのまま明治の御代まで引き継がれている。今通ってきた佐賀町河岸通りは、江戸資料館で見たように通りを挟んで、小商いの店がずらっとならんでいた。卸→仕入れて小売りというスキムな。有りしの築地魚市場と築地場外の関係が、あのあたりに成立していたんだ」
1851年(嘉永4年)に編纂された『諸問屋名前帳』を見ると、同地で扱われていたものは米・雑穀・味噌・干鰯・魚油・炭薪・糠・茶なだったが、関西から運ばれてくる所謂「下りもの」ばかりではなく・・「くだらないもの」も多くがここに集まってきたことが判る。隅田川の川筋を荒川側から降りてきた(奥川筋という)貨物舟も此処を終着点としていたのだ。
「その立ち並ぶ倉庫町の中でも、中之堀南側にあった30棟ほどあった三井家の貸し蔵は盛況だった」
「貸し蔵??」
「ん。大店は自前の倉庫が持てたが、季節商品や比較的取扱量が少ない問屋。特殊な商品を扱う問屋は自前の倉庫までは手が回らなかった。そういう問屋に三井は倉庫を貸していたんだ。これが三井に巨万の富をもたらした。とくに中之堀に並んでいた8つの蔵は"八戸前"と呼ばれるほど盛況だった。残念ながらすべて関東大震災で焼け落ちた。あの辺りは燃え尽くした。それでも後藤新平の帝都復興事業で、再興するんだが・・今度は太平洋戦争だ。それこそ根こそぎ燃え尽きちまったんだよ」
「貴方がいつも言う"燃えなかった古い町に滞積する残り香"が何も無くなってしまったわけね。ポーランドへ行ったときに、それがとってもわかったわ。一見古びた街並みなんだけど、よく見るとどれもこれも半世紀は建っていないものばかりなの」
「そうだ。特にポーランド・バルチック海の主要都市はナチスの支配するところだったからな。空爆で徹底的に灰燼の街と化した。悲しい辛い歴史だよ。
・・でも佐賀町は、戦火を逃れた旧い洋館がポツポツと残ってるんだ」
「倉庫街だったから、空爆で全部燃えちゃったんじゃないの?」
「ん、とくに310東京大空襲の被害が大きかったんだが、福住1丁目佐賀1丁目あたりには旧い洋館が残っている。あの夜は北西からの強風だった。そのため延焼が拡大したんだが、福住1丁目佐賀1丁目は北西方向が隅田川で北側が運河なんだよ。川に守られていたんだ。310直後に撮られた航空写真でも、ポツリと焼け残っていることが見えるよ。鳥肌もンの写真だ。
佐賀1丁目は2/3階建ての洋館が幾つか今でも残っている。福住1丁目のほうは木造2階建て日本家屋が残っている。今度はそれを見に歩こう。」
「今日は、スーパーで色々買っちゃったからね」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました