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小説特殊慰安施設協会#28/木挽町からの巣立ち

その夜、帰宅の途中、ゲンがうれしそうに話した。
「お昼ごろ、新橋の吉さんが来たんだ。それで昨日の夜林部長が言ってた売れ残りのビールと食いものなんだけど、オレが全部買えって言われたんだ。」
「全部?」
「うん。他の人が買った後の残りだけ、全部引き取れって言われたんだ。金はウチで出すって。
オレ、びっくりしたよ。昨日の夜のこと、吉さんもう知ってるんだもん。」
「松田さんね。」千鶴子は言った。
「ん。だと思う。それで調達の葛木課長に話しにいったら、もう話が通ってるんだ。オレの名前で残分は現金でその場で買うことになってたんだ。」
「お金は?」
「毎晩、店が矢割った頃に吉さんが持ってくるって。それで翌日売りさばいた利益を折半して夕方にソレをオフクロんとこへ届けてくれるって。松田さんってすごいね。やり手だ。」
「小美世さんは、その話、聞いていないのよね。」と小美世。
「ん。さっき決まった話だから」
「・・そう。」
ゲンの仕事に松田が絡むことを小美世は喜ぶだろうか。千鶴子はそう思ったが、あえて口にはしなかった。
家に着くと、ゲンはすぐさま意気揚々とその話を小美世にした。小美世の当惑は手に取るように判った。しかし小美世は夕餉の支度の手を止めなかった。
「そうかい。その話は、もう決まったのかい」小美世は何気ないふりをしながら言った。 ゲンは小美世の態度の変化に気付かなかった。
「うん。明日から即開始だ。」
「そうかい。・・だったらね。そのことで他人様から無駄に恨み嫉みを被らないように、お前は気をつけるんだよ。」
「あ?うん。」
「その・・吉さんが言ってる、皆さんが買われた残り分を引き取らせてもらうという話。必ず守るんだよ。たいていの人はね、誰かが自分より良い思いをするのは嫌いなもんだからね。お仲間に恨みを買わないように気配りをするんだよ。」
「・・わかった。」
ゲンは小美世がもっと喜ぶだろうと思っていたに違いない。肩透かしを食らったような顔をした。
「渡世と云うのは、沢山の方々の思わくの中を泳いで生きることなんだよ。他さまより少しでも良い思いをするときは、特に気配りを忘れないようにしないと、かならずシッペ返しがあるもんだ。忘れちゃいけないよ。」小美世は言った。
「ん。」ゲンは、何時にない小美世の硬い言葉に神妙に応えた。
「・・・それにしても、松田さんねえ。ほんとに目端の利く人だねぇ。・・あの人、何が欲しいんだろうねぇ。」小美世は箸を持つ手を止めて宙を見つめながら言った。
「実は・・私もご報告があるんです。」
千鶴子はR.A.A.の寮へ引っ越しする話をした。
「寮に入る方をお世話をする人が必要なので、私が担当することになったんです。」
千鶴子は、そんな小さな嘘をついた。
ゲンがボツリと言った。
「・・俺が、店の残りものを松田さんに引き取ってもらうようにしたから?」
「んんん。ちがうわよ。ゲンちゃん。今日の会議で決まったことなの。17日にはキャバレーがオープンでしょう?そのための仕事なの。」
なるべく明るく言ったつもりだったが、千鶴子は自分でも言葉が硬いなと思った。
小美世とゲンは下を向いたままだった。しばらくして、小美世が小さくため息のように言った。
「いつでも戻ってきてね。チヅちゃん。あなたの部屋は、そのままにしとくから。
それと着るものだけど、そのままあたしのものを使ってね。寮が宮川なら、うちまで歩いて五分も無いから、マメに寄ってね。」
千鶴子は深々と頭を下げた。
「もう大丈夫だね。びっくりする話は、一日ふたつまでだよ。これ以上は別料金だよ。」小美世が笑いながら言った。少しでも団欒の空気を和ませようと云う気持ちが、ゲンと千鶴子に痛いほど伝わった。
その夜。千鶴子は布団の中で寝られないまま考えた。
「こんな居心地の良いところから、私はわざわざ出て行こうとしている。小美世さんとゲンちゃんの好意を無にしようとしている。わがままを通そうとしている。どうして?」
自分に問うまでもなく理由は判っていた。竜造寺家だった。出奔した嫁を何時までもあの人たちが放置しておくわけはない。世間体が何より大事な人たちだ。必ず何かある。そのとき、あの優しい二人にご迷惑はかけられない。無垢の好意で私を助けてくれたのに、よけいな騒ぎに巻き込みたくない。それだけは避けたい。
築地の宮川の寮をR.A.A.で借りることに決まったとき、千鶴子はすぐさまそこへ自分も入ろうと思った。・・もちろん事務員として入るのは無理だ。そんな先例は作れない。でもダンサーとしてなら可能だ。ダンサーとして働こう。そう思ったのだ。

千鶴子が中野の竜造寺家を飛び出したのは先月の8月29日。まだ2週間しか経っていない。まるで独楽鼠のように動いた毎日だったけど、いつでも心の奥底に竜造寺家の誰かが不意に目の前に立つ恐怖が有った。もしその瞬間が事務所にいるときだったら・・小美世さんの家にいるときだったら・・その瞬間を想像すると、千鶴子はいつも息苦しくなった。
既婚なこと。嫁ぎ先を出奔してきたことは、何となく言いそびれて会社には教えていない。だから経歴詐称で事務所を解雇されても、それはそれで仕方ない。竜造寺の家へ戻るつもりは絶対に無いけど、その私のわがままで皆さんにご迷惑を色々な方にかけてしまうのは、なんとも切ない。 「どうすればいいの?中野へ出向いて離縁を請えばいいの?あの人たちが、簡単に私の望むようにしてくれる?どうしてもそうは思えない。・・どうすれば」
千鶴子は苦悶した。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました