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ボルドーれきし ものがたり/3-11 "ブルディーガラとカエサル"

クラッスス率いるカエサル軍1個軍団がブルディーガラ(ボルドー)へ入ったのは、B.C.56年。ブルターニュ/ノルマンディへ派兵した帰り道でした。ブルディーガラの商人たちは、之を大歓迎した。ローマに逆らうつもりは全くない。その態度を全市が挙げて示したのです。

軍団長だった若きプブリウス・リキニウス・クラッススPublius Licinius Crassusは、第一回三頭政治を行ったマルクス・リキニウス・クラッススの息子です。従軍は58年からで、功績豊かな貴族でした。

このクラッスス/カエサル軍が到着した日も、ガロンヌ川に面したブルディーガラ/ボルドーの港は、大量の錫とワインとその他の交易物を積んだ船が出入りをしていました。その半数がガリア人商人であり、半数がナルボンシスからやってきたローマ人商人です。その全盛ぶりに、カエサル軍は目を瞠ったに違いありません。ブルディーガラは、今彼らが戦ってきたブルターニュ/ノルマンディとは、あまりにも違う豊かな商業都市・・まるで地中海側のそれと同じ姿だったのです。

クラッスス/カエサル軍はアルモリカArmorica地域(セーヌ川とロワール川とに挟まれた地区)から南進し、徒歩でジロンド川の北側に到着しました。ブルディーガラの商人たちは、これを事前に用意していた自分たちの船で迎え入れました。そしてカエサル軍は街へ入城した。かなりの大軍でしたが、まったく穏やかな入城でした。

むろんそれは、かなり薄皮を渡る駆け引きでした。無血入城を果たすために、ブルディーガラ側は、事前にカエサル軍と綿密な打ち合わせをしていたのですが、街の半分はガリア人です。カエサル側の不信を拭うのは極めて難しかった。しかし、だからこそ。ブルディーガラの商人は、そのネゴシェーションの力を発揮したにちがいありません。

商人たちがカエサル軍に望んだのは、兵の略奪行為の禁止と破壊行為の禁止です。その代償として、充分な兵站と安全な宿舎、有り余るほどの届け物。そしてトゥールーズの峠を抜けるための道先案内人の一団を、ブルディーガラの商人は約束しました。

しかし当時、軍の侵攻には兵の略奪行為は付きものです。兵はそれを余禄と考え、将は致し方ないものと考えていたのです。カエサル軍は、きわめて統制の取れた軍団でしたが、こればかりはどうしようもなかった。

だからこそ、ブルディーガラの商人は、すべての点でカエサル軍をまるで腫れものに触るように取り扱ったのです。

カエサル軍は最初、暴発しそうなネズミのようにオドオドしながらガロンヌ川を渡り入城し、最後はローマへ戻ったように羽を伸ばした。入城後の略奪行為は散発的に局所的にしか起きませんでした。商人たちの勝利です。・・あとはさっさと出て行ってもらうだけ。商人たちは安堵しました。

もちろん、商人たちはカエサル軍を追い立てるような真似はしません。しかし彼らが地中海側のローマ属州へ戻るための道の確保は、持ち前のネゴシェーション能力を発揮して地元のガリア各族と交渉していました。もともと、地中海側ナルボンシスとブルディーガラを結ぶ、陸地通商ルート確保は、地元のガリア各族の協力なしでは成立しないものです。したがって商人たちとガリア各族とは、利害できっちりと結ばれていたのです。なるべくサッサと商売の疫病神(カエサル軍)には、通り過ぎていってほしい。これはブルディーガラ(ボルドー)の商人たちにとっても、地元のガリア各族にとっても一緒でした。

ガリア軍とって欲しい勲章は、アキテーヌのガリアを平定したこと。そして大量の獲物を得たことです。・・欲しいモノはくれてやればいい。稼ぐ道と方法を破壊しないで、いなくなってくれれば・・それで良い。それが彼らの態度/思惑でした。

カエサル軍は、意気揚々とトゥールーズの峠を抜け、地中海側へ去って行きました。諍いは、東からの一部のゲルマン系のガリア人/クィタニア人との間に有っただけだった。またそれがカエサル軍のプライドを満足されることにもなった。小さな諍いは適当な薬味になったのです。クラッススは、クィタニア人がアレモリカ諸部族との連携を阻止したという勲章を頂いたのです。

こうして疫病神(カエサル軍)の旋風は、ほぼ90日で、大西洋と地中海を結ぶ最短陸橋であるブルディーガラ→トゥールーズ→ナルボンシスを吹き抜けていき、通商ルートは平常に戻りました。ブルディーガラの商人は、街と通商ルートを守り切ったのです

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました