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夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩3-7/バスを使ってコルトン歩き#05

もう少し走ると門構えのDOMAINE BONNEAUの看板が見えるが、それを越えるともう一つの"DOMAINE BONNEAU DU MARTRAY CORTON CHARLEMAGNE"がある。
「ここを入る」
「いいの?私有地じゃないの?」
「大丈夫だ。入る」
「それより、坂よ。走れるの?」
無視して走った。ははは、ありがたいなと思っても、こういうときは無視する。
道は300mほどの登り道。途中から未舗装になった。こりゃ帰りは通れないな・・と思った。昇りきるとT字で舗装路になった。
ふう・・溜息を付いて、休んだ。勾配ある斜面がコルトンの丘の方へ続いている。すべてワイン畑だ。見下ろすと今走ってきた平地が見えた。すべてワイン畑で埋もれている。コルトンの村が左向こうに見えた。
「あそこから来たのね。意外に自転車でこられるのねぇ。感心しちゃったわ」と嫁さんが言った。
「もう少し走る」
僕らはコルトンの丘を左に見て走り始めた。ときおり低い壁が切れて、木製の板が仕切りのように敷かれていた。これが持ち主の境目なのかもしれない。この程度の認識でいいんだろうな・・そう思った。200mほど走ると右側に十字架が見えた。
Croix de Charlemagne(3VC3+RX, 21420 Aloxe-Corton)の十字架である。
僕らはその前で停まった。

「ここでカール大帝の白ワインを作ったという記念塔だ」
「本当にここで作ったの?」
「1000年前だからな。まあ、その頃のコルトンの畑は全部カール大帝のものだった。絶対に此処!という史料はない。でもここで作ったんだ。指示したのは四番目の奥さんルイトガルトだ」

僕は十字架の後ろにある畑まで降りて、土を取った。嫁さんに出すと、首を振られてしまった。食べてみると…さっきの丘の下の土と全く違う。明らかにスパイシーなパンチを受けた。シャルドネのキンメリジャン土壌に近いのか・・100mほどの勾配で、これほど変わるのか・・・軽い感動をうけた。

嫁さんは十字架を熱心にipadで写真を撮っていた。
そして振り返って、思いついたように言った。
「でもさ・・なぜカール大帝は、いろいろな言われ方をするの?カールでいいんじゃない?シャルルでもいいけど」
「ん~彼が統治したときのフランク王国は大きくてな、彼の死後、いつものように子供たちに分断統治されたんだよ。その分断統治からいまのイタリア/ドイツ/スペイン/フランスが生まれていくんだ。それなんで各国が自分の始祖を敬愛を込めて自国語の名前で呼んでるのさ。ドイツ語は"カールKarl"フランス語は"シャルルCharle"かCharlemagne"スペイン語はカルロス"Carlos"だ。ラテン語もカロルス"Carolus"だな。英語表記じゃあまり言われないが"チャールズ大帝Charles the Grate"になる」
「へぇラテン語表記もあるのね」
「ローマ教皇が認定してローマ皇帝に戴冠したことあるからな。それに当時フランク王国の公用語はラテン語だった。
ただこのローマ教会がローマ皇帝の称号を彼に与えたのは、実は相当無理がある。ローマ帝国という名前は、いくら神の聖名によりとローマ教会が云っても、もうひとつ"キリストの神"の聖名を販売してるところが有ったからな。ビザンチンの正教教会だ。
この二つの対立は、鯛焼き屋の"元祖"本家"の争いと同じで、ずーっと続いた。それもあって後者教会の庇護者だった東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はカール大帝がローマ帝国皇帝になることは認めなかった。まあ商いもあるし、看板ごときで無為にもめたくなかったから、カール大帝自身も自分からはローマ皇帝は名乗らなかったようだ。結局はローマ教会の独りよがりさ。
カール大帝は大男でガサツで多淫な男だったが、スバ抜けて明晰な男だった。奢れることはしなかった。生涯を戦いに献じた男だ。猛烈なリアリストなはずだ。しかし首都だったアーヘンに有識者を集めてカロリングルネッサンスを興したり知的な求道心が強い人だった。ワインについても見識が高かった。史料によると、カール大帝はワイン製造の監督者に葡萄畑とワインセラーの技術革新を強く奨励したそうだ。「全員の利益のため、高品質のブドウ栽培の生産と維持のための正確な規則を制定せよ」という指示をしたという。
「その人が日々飲むワインがこの丘で作られたのね」
「ん。コルトンの畑の管理はソリューSaulieuのサン・タンドッシュ修道院に託されていた」
「ソリュー?知らないわ」
「コルトンからだと北西に50kmあまり離れた町だ。アグリッパ街道 Via Agrippaの途中駅だよ、アヴァロン Avallon とオータンAUTANの間にある。『SidolocuあるいはSidis』と呼ばれていた交易地だ。コルトンで作られたカール大帝のワインはアルネ=ル=デュックArnay-le-Duを挟んで、このソリューSaulieuへ送られて、パリに運ばれた。その管理者がサン・タンドッシュ修道院Basilique Saint-Andoche de Saulieuだったわけだ。何しろワインの製造管理は修道僧たちが最先端だったからな。755年にカール大帝はコルトンの丘周辺をすべてサン・タンドッシュ修道院に寄付している」
「え~でも、サン・タンドッシュ修道院じゃなかったわよね。村に有ったのは‥」
「聖メダール教会Eglise Saint Medard。あれは1890年にディジョン司教が寄贈したものだ。パリ革命以降。コルトンには教会がなかった」
「あ・ここでもパリ革命ね。サン・タンドッシュ修道院が守っていた畑は全滅したのね」
「ん。小作人たちに分けられた。他のブルゴーニュのようにね。分けられた小作人たちは、せっせとピノノワールを育てたんだ」
「カール大帝の奥さんの気配りは完全に消えたのね」
嫁さんは丘の上に一人ぼっちで立つ十字架を見つめた。
「それでもこの十字架は1000年残ったのね・・」
「・・ところがだな」
「あ・またでた・・ところが・・ところがどうしたの?」
「つい最近、これによじ登った奴がいた。脆いからな、壊れちまったんだ」
「あら!じゃアコレ、新品なの?」
「村の人が協力して粉々になった塔を集めて、ようやく復旧したんだ」
「・・そう」
「まあ、それで少しはきれいになったが」
「とりあえず壊れたままじゃなくてよかったわね」
「まったくだ・・そろそろ帰ろ」
帰りは反対の道をひたすら降りた。少しひろいレ・ペリエール通りに繋がるから、そのまま1kmほど下る。ホテルまでは20分ほどだった。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました