見出し画像

【黒海の記憶#12/商いの道・南側東海岸】

黒海へ繰り出したギリシャ人の商船は、ワイン/オリーブを詰めたアンフォラ、織物、宝飾品を積んでいた。ボスポラス海峡を越えて、黒海に入ると海は数十センチ底も見えない暗黒色で、海流は東に向かって止まることなく流れていた。商船はこの海流に乗った。やがて黒海東海岸北海岸に到着。かれらは、ここで木材、金属製品、雑穀、小麦を贖った。すべてギリシャが交易のみで手に入れていたものだ。

こうした交易が定常化すると、自然に黒海沿岸各所にそのための集積拠点が生まれた。時期的にはBC700くらいからだろうか、幾つもの移植都市が生まれている。南岸のシノベ、コーカサス山麓のディオスクリアス、アビドス、キュジコス、オルビアはヒュパニス川の河口に建設されて、北方草原地帯との交易の中心地になった。こうして、黒海は神話の中の魔物が住む地ではなくなっていったのである。

こうした交易の街のなかで最も栄えたのは、意外にも黒海沿岸のそれではなくエーゲ海側のミレトスという街だった。

小アジア南西岸にある、現トルコのサケイ南方にある交易都市だ。都市として成立したのはミノア文明の時代で、エーゲ海側(現)メンデレス川河口という地の利を生かしてアナトリア地方の早くから栄えた街である。ミトレスの商人は、いち早く黒海へ漕ぎだした人々だった。そして幾つもの中継都市を黒海沿岸に作り、それらの荷物をボスポラス海峡を越えてミトレスの街へ運び、エーゲ海の城塞都市やレバントの諸都市、エジプトなどとの交易に使った。

しかしこうした母都市/植民地という力関係は、いつでも植民地側が豊かになることで壊れていく。

取扱い商品が豊かにそして物量が増えれば、買い先は母都市だけではなくなっていく。そして町の規模もエーゲ海側の都市と変わらないくらいのサイズになれば、自然に独立の気概は生まれてくるものなのだ。

たとえば・・上記黒海沿岸の都市シノべ(現スィノプ)だが、大きな半島の風下にあたる狭い地峡にある町だ。ストラボンは自著の中で「神話の英雄イアーソーンが率いるアルゴナウタイがシノベを発見した」と書いている。ごく初期にミトレスによって開拓された交易地だったこともあって、交易地としては黒海の中では最大級のものだった。ストラボンは「この地方にある市の中でもっとも名高い」ものと書いている。シノベはボスポラス海峡を渡った商船が最初に停留する町だった。商人はここで、交易用の商品を小分けした。同地独特の形をした運搬用のアンフォラ(ミケーネのようにオレンジ色と黒色で彩色され、イルカを捕らえた鷲の紋章がつけられている)は黒海に点在するたくさんの遺跡で大量に見つかっている。

BC200年ころからシノブはポントス王国の首都となった。王であるミトリダテス6世エウパトルは、クリミアのタウリカ/ボスポロス王国と同盟を結び大きく栄えたが、BC47年急速に伸びてきたローマ帝国に征服され、同国の管理下に入ってしまう。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国のものとなるが、商業地としてイズニク、ブルサに繋がる交易の重要地点だったこと変わらず、そのためモスレムとの戦いの中で政権は右往左往する町になってしまった。そして最終的にはオスマン帝国の管理下になっている。

もうひとつ。注記すべきはもう少し黒海南岸もうすこし東の町トラベズス(現トラブゾン)である。

トラベズスは、アナトリアとペルシャ・メソポタミアを繋ぐ太古から使われていた街道の西側の終着点だった。ミトレスの商人がここに中継点を置いたのは、このアルメニア高原を横切ってティグリス・ユーフラテス川の流域への古道が脈々と生きていたからだ。トラベズスには、こうした東方の異国からの交易物が大量に集まっており、ギリシャ人たちは地中海東岸の都市を介在せずに交易できたのだ。

しかしAC258年にゴート人に破壊された後は、急速に衰えてしまった。

それでも第4回十字軍によって追われたアレクシオス・コムネノスが同地で興したトレビゾンド帝国(1204)は、交易の地としての利点を生かし一時は復活の勢いを見せたが、これもまたオスマン帝国のメフメト2世によって滅ぼされている。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました