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小説特殊慰安施設協会#04/1-1 焼け跡から飛び立つ

 そのとき玄関から声がした。
「干物と蜆、買ってきたぜ。」ゲンだった。
小ぎれいな国民服とゲートル姿に帽子を被っていた。
「お帰り。よく買えたね、ゲン。ほら千鶴子さんだよ。ご挨拶し。」小美世が言った。
「あ」ゲンは両手に干物と蜆を入れた袋を持ったまま棒立ちになった。「千鶴子さん。」
「おや、よく憶えてたね。萬田先生とこのお嬢さんだよ。」
「萬田先生んとこ・・」
「ん。燃えちゃったからね、チヅさんは今日からウチで暮らすからね。」 「ご迷惑をおかけします。」
千鶴子が座りなおして深々と頭を下げると、玄関に座ってゲートルを解くゲンは、碌に千鶴子を見ないまま「・・俺。メシ炊く。」と台所に飛び込んでしまった。
「チヅちゃん美人だからね、あいつテレくさいんだよ。バカだねほんと」小美世が笑った。

小美世の家は二階家で、玄関を入ると左に二畳ほどの部屋。正面が六畳の居間。奥が台所になっていた。二階は台所側から急な階段を上がって六畳二間。物干し場がある。
千鶴子はその二階の一間を使うように言われた。
「ゲンはあたしと寝るからね、チヅちゃんが使っておくれ」と小美世が言った。 千鶴子は固辞した。
「小上がりの横の所で充分です。ゲンちゃんの部屋を譲ってもらうなんて出来ません。」
「いいのよ、こんなやつ。物干し場で寝たっていいだから」
「俺、俺の荷物うごかす。」というと、ゲンは二階に上がってしまった。

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朝、千鶴子は小美世の鼻歌で目覚めた。
「おはようございます。」千鶴子が声をかけると襖が開いた。
「あ。起きた?ごめんよ。うるさかったかい?いやさ、チヅちゃんが着られそうなものをタンスの中から掘り出していたのよ。あたしだって洋装することだってあるからね、少しくらいはハイカラなものもあるから、ほら。」そういうと小美世は目の前に積まれた洋服を指した。「しばらくは間に合うわね。」
 千恵子は泣きそうになった。小美世の家と千鶴子の家はそれほど親交があったわけではない。朝晩顔を合わせれば挨拶する程度の近所付き合いだった。それを・・ そう思うと、小美世の優しさに千恵子は涙ぐんでしまった。
小美世は笑いながら言った。
「うれしいねぇ、あたしゃ女の子が欲しかったのよ。それがさ、生まれてきたのは、あんなアンペラボーな男でさ、ノそノそシてるだけで、家の重しくらいしか役に立たないのよ。うれしいねぇ、チヅちゃん。まるで神さまが奮発して私の夢を叶えてくれたようだよ。」
「ありがとうございます」千鶴子は三つ指をついて深々と頭を下げた。
 その時、階下から「メシできたぜ」ゲンの声がした。
「ゲンちゃんが?」
「そうなのよ。ゲンの奴の役回りなのよ。あいつ、大したことは出来ないんだけどね、料理だけは、あたしに似ないで上手なのよ」

階下に降りると、居間の卓袱台の上に朝餉が並んでいた。
「ゲン、チヅちゃんを送ってやるんだよ。まだまだ銀座だって物騒だからね。あんたが番犬やるんだよ」卓袱台につくと小美世が言った。ゲンは小さく頷いた。
「それとね、チヅちゃん。奉職初日だからね、今日は着物でお行きよ。普段使いできる着物と帯を選んでおいたからね」小美世が嬉しそうに言った。小美世も小さく頷いた。

三吉橋の傍らにある小美世の家を出ると、千鶴子とゲンは築地川に沿って歩いた。
道を挟んで、川に沿って建つ家は明暗をはっきり分けている。晴海通り周辺の家は全て燃え落ちている。その焼け跡にトタン板を焼けボックイで支えたようなバラックが幾つも出来ていた。そしてそのバラックの中から朝餉を炊く煙の筋が何本もたっていた。空襲の恐怖が終わって二週間、どん底からだったが、日々の生活が少しずつ始まっているのだ。
「この辺は、全部燃えちゃったのね」千鶴子が言った。
「ん。うちの方はあんまり爆撃されなかったんだけど、こちら側は三月と五月に徹底的にやられたんだ。」
 築地川の向こう側も爆撃を受けた跡があまりなかった。
「築地が、あんまり燃えなかったのは、聖路加があるからかしら?」
「そうかもしれないな。でも三月はひどかったよ。」
「ウチが燃えちゃった日?」
「あ、そうだ。チィちゃんちが燃えた日だ。チィちゃんとこの小父さんも小母さんも亡くなった日だ。」
 ゲンは千鶴子のことをチィちゃんと呼んだ。近所の子供たちが千鶴子を呼んでいた愛称だ。千鶴子は、まだ平和だった子供時代に一瞬戻ったような気がした。
「私、あの次の日に心配で朝早く中野から見に来たの。跡形も無くなってた。自分の家が何処だか、しばらく判らないくらいひどかった。まだ燃え燻ってたし、手の付けようもなかったわ。」
 焦燥しながら帰った嫁ぎ先の竜造寺家で、その報告をすると夫も父母も「あそうか」と一言だけだった。そのことが今でも千鶴子の心の奥で固い蟠りになっている。
「ひどかったよな。俺もさ、大井の軍需工場で働いててさ、ラジオで聞いたんだ。それで仕事が早上がりになって、急いで帰ろうと思ったら電車動いてないし、歩いて帰るしかなかったんだよ。そしたら浜離宮を越えたあたりから、銀座の方の空が真っ赤で、あぁこりゃあもう駄目だなと思ったよ。」 「焼け出された方には申し訳ないけど、よかったわね。」
「ん。新橋から昭和通りを歩いてたんだけどさ。全部、燃えちまってるだろ。それで覚悟決めて万年橋を曲がったら、燃えてなかったんだ。だから、もしかしたらって思って駆け足になっちゃったよ。それで、大丈夫か!ってウチ飛び込んだら、お袋。三味線何本も抱えて防空頭巾のまま大神宮様に一所懸命手を合わせてんだよ。思わず俺、笑っちまった。そしたら、生きてたんだね、よかったよかったって、命より大事にしてる三味線放り投げて、俺にしがみついてきたんだ。ビックリしたよ、お袋にしがみつかれたのはガキのころ以来だったからな。」
「ゲンちゃん。おいおい泣いたんだって?」千鶴子が笑いながら言うと、ゲンが恥ずかしそうに頭を掻いた。
「あれぇ、そうだったっけ。」

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました