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家とさよならした話

2020年10月に父が亡くなり、一人暮らしになった母。住んでいたのは2人で建てた一軒家で、小さいながらも夢が叶ったマイホームでした。

しかし最寄りの交通機関は1時間に1本のバスのみ。バス停までは歩いて30分、車でどこでも連れて行ってくれた父がいなくなってからは、タクシーを呼ぶか、私が行くのを待つしかない。質素倹約な母は、タクシーなんぞ勿体なくて使えないので、週に一度、私が車を借りて、実家に通う生活が続きました。

けれど、私も自分の家庭があり、実家に行けない日もあります。そんな時母に電話すると、明らかに落胆した声で「わかったよ」と返すものの、次に会った時のあまりに嬉しげな、ホッとした表情を見ると、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまいます。

母には私の家で同居すること、私が実家で一緒に住むこと、別の家で一緒に住むこと、いろいろ提案したけれど、最終的に選んだのは、施設に入居することでした。

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施設の前の公園並木

こうして2021年3月、実家は人の住まない家となりました。
それでも私は実家へ通います。

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父の名残りがある庭

父が毎日、草取りをして、土を耕していた庭。
母が毎日、こまごまと掃除をしていた室内。
その状態を少しでも、維持しておきたかった。

はじめは母がすぐ「戻りたい」と言うんじゃないかと思っていたのもあります。

父が残した本の整理や、冷蔵庫に置かれたままな食材を片付けながら、父と向き合っていたかったのかもしれません。

棚の奥から野菜の種を見つけてからは、野菜も作ろうと思い立ち、ひと夏でしたが、ピーマン、トウモロコシ、シソを収穫することができました。

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たくさん葉をつけてくれた青じそ

野菜づくりは、日々の変化を逐一追いかけたいほど楽しくて、週末無理して実家に通っていた時もあります。中でもトウモロコシは、夏になると、父がたくさん作って持って来てくれた野菜。あの頃は毎週毎週、大量に届く野菜が鬱陶しくて、何度か断ったりもしていたのです。なんてもったいないことを、なんてひどいことを、父と野菜たちにしていたことか、自分で作ってみたら、わかるのにね。

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2粒だけ植えたトウモロコシ🌽

実がなったのは2本だけ。

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粒も揃わず、不恰好なトウモロコシだけど、茹でたら甘くて美味しかった!母にも食べてもらいたくて、施設に持って行きました。

父が亡くなった後も、この家で父の誕生日を2回祝いました。

庭に咲いた花を束ねたブーケ

一方で、残された物の片付けも始めました。
物には思い出も付いていて、手に取ると、すっかり忘れていたことまで記憶が蘇るのです。まるで今、その時を過ごしているかのような不思議な時間は、悲しいというよりはむしろ懐かしく、楽しい時間でした。母と一緒の日にはアルバムの写真や、父が着ていた洋服や靴から、母しか知らないエピソードを聞くこともありました。

オーダーしてプレゼントした帽子

亡くなった直後から、少しずつ取りかかっていた死亡届や、家や電気・ガス・水道・電話の名義変更、銀行や携帯電話の解約は、父の存在を消していく作業のようで、やればやるほど哀しみが募りましたが、物は処分してなくなっても父は決して無くなってしまうわけではない。
物と一緒に、父の存在がますます感じられたことで、力をもらえた気がします。
 
こうして手をかける時間を持てたことで、家を手放すことも、受け入れできるようになりました。
考えに考えて、やれることはやった結果の結論だと思えたから。

一番嬉しかったのは、新しい持ち主さんが、父の庭の価値をわかってくれたこと。広い庭は草も生えるし、それだけ手もかかる。売却を相談した専門の方からは、売買にはマイナスポイントだと言われていました。すべてではないにしろ、一部でも引き継いで使ってもらえるなら、こんなありがたいことはありません。

2階の私の部屋から最後に見た庭

処分が難しい物も、かなり引き取ってもらえました。
高校まで弾いていた50年もののピアノは、私が小学生の時、ピアノの先生から譲り受けたもの。これから弾いてもらえるかどうかはわかりませんが、壊されなかっただけでもホッとしました。

父が買ってくれた世界名作図書館全集は、何度読んだかわからない、私の心の支えでした。今でも続く妄想空想癖はこの子たちから始まったと思うから。
新しい持ち主さんのお子さんや、誰かに読んでもらえたら嬉しいな。

母が北海道から持って来た足踏みミシンや、着物箪笥は買主さんの親御さんが欲しいと言ってくれたそうです。
父が集めたコーヒーカップやグラスは、厳選して2客だけ私が持っていることに。私がこの世からいなくなる時、父に返しに行こうと思います。

2022年10月、家の中に残した物は、すべて片付け終わりました。

そして今週、鍵を渡して、とうとう別れを告げました。

母と最後に泊まった翌朝の空

もう目で見なくても、いつでも私は、父と母のいる実家の様子を思い出すことができます。

よく考えたら、それは、家がある時も、父が生きていた時も、亡くなった後も、母がひとりになってからも、誰もいなくなってからも、変わらなかったことかもしれません。
それでも間違いなく言えるのは、この2年間は、私がこの家といちばん深く向き合えた日々だったということ。
たぶんもうあまり振り返らなくても良いくらいの気持ちでいられるのも、そこにかけた時間があるからだと思います。

来週には、父の2回目の命日がやって来ます。

そしてこのタイミングでの実家仕舞いは、父の計らいのような気がしてなりません。
なんと言っても、ここは父の家だったのだから。
好きなように建てて、充分に家での生活を楽しんで逝った父。きっと私が困らないよう、こんなご縁を繋いでくれたに違いないと、思ってしまう私がいます。

いつか私がそちらに行ったら、父にきいてみたいです。

ありがとう、お父さん。

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