体幹の働きの幻と美しさ
AM 8:21、地下鉄内。
今ちょうど隣に座っている女性が、私のスマホ画面にうつっていた真っ赤な水着姿を身に纏い、砂浜でパピー姿勢をとっているパツキンの女性の画像を見て、横いざりという、優しさとさりげなさに満ち溢れた方法で、3cmほど僕より遠位方向に移動した所だ。
そう、今私は真顔でパツキンで水着の美女を見ている。
彼女をレイチェル(仮)と呼ぶことにしよう。
レイチェルは調度良い肉付きで顔よりも大きいであろう胸を装備している。
ホンモノかどうかは定かではない。
しかし、そこに目が無意識に目が行ってしまうことがアイキャッチャーとしてのマーケティングの要素を潜在的に含んでおり、当人はそれに騙されたことにすら気づかないままに、画像横や下の宣伝広告をクリックしてしまうことにレイチェルの胸の意味がある。
そこに胸があるのに、見ない男性はいないはずだ。
もうそれは条件反射だ。
バイザーがいる時にだけ真面目な顔をしている学生に等しく、年上の男性との食事では財布すら持っていかず、ダイエットと公言しているのに、無意識にドーナツを食べた挙句「水だけでも太っちゃうのー」と都合の悪い記憶を忘れてしまうくらいの条件反射だ。
なぜレイチェルと出会うことになったのか、それは後々明らかになる。。
では本題です。
身体において、手足(上肢、下肢)のつく胴体部分である「体幹」は重要です。
体幹が存在しなければ、手足はちゃんと機能しません。
生身の人間を想像すると、ややエグいので、オモチャのロボットを想像してみましょう。
オモチャのロボットを手足バラバラにしましょう。
笑顔でやっているとおとうさんおかあさんに心配されるので、神妙な面持ちでやりましょう。
目の前にはバラバラに別れたロボットの胴体、左右の手足がそれぞれあるはずです。
決して、笑顔にならないように気をつけましょう。
それらの手足は、胴体から離しても、手と足です。
その存在は変わりません。
しかしその手足は、手と足である、という存在以上の価値は生み出せません。
いくら足を動かしても
つながっていない胴体部分にはその力が伝わらず、足だけが歩いていってしまうことでしょう。
本来の肩と股関節は胴体が無いために場所の名称としては存在しても機能せず、手と足の移動形態としてはそれぞれ肘と膝の曲げ伸ばしを繰り返すというシャクトリムシの原理です。
手や足は胴体にくっついているおかげで、初めて肩と股関節は胴体に対して影響を及ぼすことができます。そのおかげで胴体側に手や足を引き寄せる動作が可能となり、おいしいご飯を口に運べたり、ブラジャーをつけたり、ヘソのゴマを取ったり、自分の足の匂いを嗅ぐことが可能となります。
胴体と手足がついてなかったらどうなるでしょうか。
きっとあなたの右手はブラジャーを持ったままシャクトリムシ状態で、どこかにいってしまうことでしょう。
そもそも、手と胴体がつながらなければ肩が存在しないので、ブラジャーすら肩にかけれません。水着のように肩掛けのないタイプかヌーブラにしましょう。
バラした両上肢の指を合わせて左右の上肢をつなぎ、首からかけると、胸が隠れるかもしれませんね。新たな上肢の価値の創造です。
という常軌を逸したことをイメージしていたら、
肩掛けのないタイプのブラジャーの正式名称を知らないことに気づき、
ビキニ
とスマホで検索していたら、レイチェルと出会ったわけです。
これが私とレイチェルの出会いの馴れ初めです。
まぁ、ともかく身体は各パーツが個別に存在しているわけではありません。
リハビリにおいても、各パーツの評価はもちろん大切ですが、
身体全体として捉えたり、
その人にとっての手や足の意味を考えることが大切です。
本題のはずだった、体幹の重要性はまた今度。
終わり。