神聖化

神聖化するということ

「神聖化」。

あんまり普段使う言葉ではないかもしれない。わたしは意識の仕組みについて学び、そのはたらきについて教えることに携わらせてもらっていて、その中で神聖化の大切さを理解しているつもりなんだけれども、それでも神聖化の場面に遭遇するたびいつも、胸の奥から熱いものが湧き、頭を垂れたくなる気持ちにかられる。特別な気持ちに、なる。

最近、あぁこれが神聖化だなあと感じることがまたひとつあった。ある会社が、スリランカで服の縫製工場を持っておられて、そこでは職人さんたちが仕事を始める前に必ずミシンに向かって拝むのだそうだ。お願いごとなのか、感謝の気持ちなのか、まずは手を合わせる。そんな工場の空気はとても、静謐なんじゃないかなと想像する。仕上げられていく服も、大切にされるのが想像できる。そしてその売り手も買う側も、どちらも気持ちの良いやりとりになるだろうことも。実際に、その工場で縫製されたドレスはとても着心地がよく、その商品を扱っておられるお店の方もとても、気持ちがいい。

20年ほど前のこと、心がちょっと疲れてしまった友人がいた。そのころわたしは農家さんの顔がわかる野菜を毎週届けてもらっていて、形は良くないけれどもとにかく美味しくて、食べることが好きな彼女にその野菜を紹介したことがある。そうしたら、届いたトマトを食べて彼女は元気になってしまった。このトマトは全然違う、と言って。トマトという野菜が栽培されること、それが流通され口に入ることは、数限りなく繰り返し世の中で行われていることで、でも今回彼女が元気になってしまったトマトが口に入るまでには、それだけではない「何か」、目に見えるものではないかもしれないけれども確かに存在している「何か」が加わっているのだろうと思う。例えば、農家さんが本当につくりたいと思う作り方で野菜を育てているとか、その先にいるそのトマトを口にする人たちのことを思い描いて箱に詰めるとか、扱っている流通業者の人たちが熱い想いで農家さんと関わっているとか。これもまた、神聖化になり、並はずれた力を吹き込んでいるのだ。

余談だけれども、実はこのnoteは12月に途中まで書いていたもの。途中やめになっていた。そしてついこの間、みんなで”神聖化”について熟考してみる機会があって、わたしはありありと自分自身が神聖化された時のことを思い出した。それをnoteに綴ろうと思って開いてみたら、なんとアップされていない”神聖化すること”についてのnoteがわたしを待っていた!

そして思い出したのは、よく似ているように感じる二つの出来事。

わたしはピアノを小さい頃から習っていて、小学校の高学年からは音大の先生のところへ通い、それもあって音大に進むという選択肢を持っていた。高校に入ってからは音大に行くと決断し、歌や楽典も別の先生のところへ学びに通い、夏期講習や冬期講習も音大に通い、受験に必要な勉強を進めていたのだけれどふと、確かあれは高2の時、わたしの人生はピアノだけで終わってしまうのだろうか?と立ち止まってしまった。毎日8時間の練習で(毎日毎日真面目にやり続けていたわけではないけれど)、大学に入ったら遊べるから、という人もいたがそんなはずはないだろうと、当時のわたしにはその意味はとらえきれなかった。そして、先生に、「音大に行くのをやめようと思います」と正直に話した。先生からの答えは、「あなたの人生だし、音楽はやりたければまたいつでも始められる。お勉強が全然できないんだったらピアノをやればいいというけれど、あなたは他にもできる。それでいい。そうしなさい。」それまでの先生は、音大合格に向かう一直線の道の話しか、わたしにしなかった。食事の仕方、生活の仕方、時間の使い方まで含まれた、全部とてもとてもストイックなアドバイスだった。(あ、一つだけ、まだ中学生のわたしに、先生のお子さんの勉強の仕方について相談されたことがあった。今思うと、一人の人間としてずっとみてきてくださっていたが故の、やめると言ったわたしへの言葉だったのかもしれない。)いつでも始められるから、という話の中で、一緒に音楽の道を進んできていた先生の友人が新聞記者になり、すっかり大人になってからまたピアノを始めたっていう体験談も初めて話してくれた。その時の先生には非難めいた感じも、がっかりした感じも何にもなくて、ただわたしの選択を尊重と敬意を持って受け取ってくれ、そして勇気付けてくれたという、感動と、畏怖のような感じだけが残っている。17歳のわたしが、人生の転機を感謝とともに迎えた瞬間だった。

そして、もう一つ。14年前に、意識の勉強の上級コースのために、アメリカへ行こうとしていた時。行くと決めたら、たくさんの情報が入ってきた。安い航空券を手配できる、とか、航空券はどこが安い、とか。親切心からくださった、たくさんのオファーだった。わたしは飛行機をそれまでにもよく使っていて、自分で「これを選ぶ」と決めている基準があったけれど、その時にわたしが基準をもっている、ということについて興味を持つ人はいなくて、ドバーっとただ情報がやってきた。そしてなんとなくの立ち話の時。ある人に、「エアチケットはどうされましたか?」と聞かれて、わたしはいつも取るように取ろうとしている、以前から使っている航空会社があるので、と話をした。すると、「そうなんですね、僕がもしそうしてるんだったら、僕も絶対それでとります」。内容はなんてことないこと。だけれど、その時のその人の感じは、わたしのその一言を理解し、受け取ってくれていた。疑いなく、わたしはそう感じた。そして、なんだか一緒にワクワクした!その人はこの道で、ずっと先を進んでいる人。世界中の意識の探求者をサポートしている人だった。学び始めたばかりのわたしに、ピアノの先生と同じく、心からの敬意と尊重から、接してくれていた。

これらの経験は、”聖なる驚異と再び繋がる”ことを、可能にしてくれた瞬間だったようにおもう。それはきっと、元気になった友達にとっても。一瞬にして、自分自身やそのものの価値がよみがえるような魔法の瞬間は、確かにあるのだ。

神聖化というのは、こういうことなんだろうと思う。いつでも、どんな瞬間でも、それはできることなのだ。人生の中での、全てに対する理解、尊重や敬いのある分け隔てのない態度なのだと思う。それが、勇気を与え、不可能を可能にする力を持つのだ。

そして、わたしはこのことについて理解を深め続けることができ、少なからず実践し続けていられることに、心から感謝している。

興味のあるかたへ;
一読していただきたい本。
ハリー・パルマー著『アバター®️の道II プライベートレッスン』より
<レッスン66 並はずれたものと平凡なもの>
https://avatarj.com/books/book-pl/




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