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かけおちる

    顔も知らない女と2人、名前も知らない町まで逃げて、数週間が経った。自分でも、気が触れていたとしか、そして今でも、気が触れているとしか、思えなかった。東京の大きな駅の構内、たまたまそばを歩いていたというだけで、女は私に声をかけてきた。三十がらみの少しけばけばとした女で、重たそうなキャリーケースを引きずっていた。逃げるべき理由も、義理も、私にはなんにもないのに、気づいたら女と2人で、逃げていた。まあいいか、と思った。逃げたところで、失うものなど、私にはなかった。ふらふらと、誘われるままに、女についていった。

   逃げた先では、ウィークリーマンションを転々として、2人で適当に暮らした。今の部屋で5軒目――ということは、5週間、が経ったことになる。5週間、かあ。心の内で、呟いた。それだけの時間、一緒に過ごしているのにも関わらず、私は女のことを、いまだなんにも知らないのだった。追いかけて、こないかなぁ。ときおり、女はそうぼやいた。私にも聞こえるように、わざと、大きな声でこぼしているようだった。こんなところまでわざわざ逃げてきたのに、追いかけてきてほしいの。尋ねると、女は途端に不機嫌そうな顔になって、唇を噛んだ。そうじゃない、そうじゃないの。女がそれきり口を噤んだので、会話は途切れた。

   どうかしている、と思った。私は、怖いのだ。そろそろ帰ろう、と、ある日とつぜん女が言い出すのではないかと考えると、まなうらがすうっと暗くなるような心地に襲われるのだった。ねえ、どうしてついてきてくれたの。今度は、女が私に尋ねてきた。わかんない。私は答えた。次の部屋、探さないとね。私の言葉に、女は何も答えなかった。怖くなって、女の顔から目を背けた。初めて会ったときよりも、女のけばけばとした雰囲気は、だいぶ和らいでいるように思えた。どうかしている。また、考えた。何もわからないままこんなところまで連れてこられて、それなのに。どうかしているのだ。女も。多分それ以上に、私、自身も。私はため息をついてから、次に契約をするウィークリーマンションを探すため、携帯電話を取り出した。



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