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天空の標 第四十七話

第十五章 火焔(ニ)

 常ならぬ状況を察知したのか、馬の足取りに困惑が感じられる。それもそのはずだ。本来なら闇の中に星が輝くはずの新月の夜であるのに、あたり一面に光明が広がっているのだ。妖しい光は南から次第に空を浸食したようで、今やシレアの北に連なる山脈の稜線までもくれないに縁取られている。
 天球儀に起こった異常は、天球儀という機械の問題にとどまらず、そこから実際の空にも影響が及び出したのか。
 シレア国首都、シューザリーンには東西南北に門がある。手紙を読めば行くべきは東門。カエルムは白夜に驚く栃栗毛の愛馬を励まし門を抜けるや、東塔へ駆けつけた。
 塔の入り口にはカエルムの馬よりも若い王女いもうとの愛馬が結びつけられていたが、栃栗毛を見つけるなり怯えた鳴き声を発する。馬を止めてみれば、塔の扉は開け放たれ、入り口床には木片。王女ならこんな力ずくで扉を開ける必要はない。
 鷲に運ばれた伝達は、真実か。
 カエルムは剣を確かめ、急階段の上を睨みつけた。

 
 ***

 音を立てぬよう急階段を昇っていくと、人の気配が近づいてくる。一人ではない。複数だ。培った感覚が剣呑な空気を掴み取る。足を速めていけば、低くも乱雑な物言いがこぼれ落ちてきた。
 己の殺気をここまで露わにする人間たちなら、程度は知れている。王女いもうとの叫びや恐怖が空間に感じ取れないのだからこの評価は確実だ。
 相手は恐らく三人ほどか。
 その数ならば、自分の敵ではない。
 目指す高層階まではあと一層。
 剣の柄に手を当て、息を止めた。
「お人好しもいい加減にしないと身を滅ぼすぞ。無能な為政者が」
 醜い濁声の直後、澄んだ声音が鳴り響く。
「彼にはわたくし自らが問います。愚鈍な雑魚の相手はしてられないわ」
「はっ! 何を小娘ごときが! すぐにテハイザ王の前でその生意気な口を後悔させてや……」
 どん、と鈍い音が男の言葉を呼吸もろとも止める。
「その必要は無い。王との交渉はもう平和裡に終わった」
 振り向いた残り二人を続けざまに突く。柄を持つ手に受けた衝撃は、ずん、という床からの振動と中和していった。
「お帰りなさい、お兄様」
 傾いだ巨体を一瞥もせず、カエルムは柄を戻して開けた視界の先に微笑みかける。
「ただいま戻った。留守中の采配、感謝する」
 久方ぶりに見る王女いもうとは、カエルムが国を出立した時よりもやや大人びた表情で迎えたかと思ったら、兄の応えを聞くとカエルムの記憶そのままに喜色いっぱいに破顔した。

***

「ともかく、城へ戻ろう」
 白夜の空を仰ぎ、カエルムと王女いもうとはよく知る道を都中心へ駆け出した。真夜中にあるまじき煌々たる朱色が天と地の際を染め上げる。
「これは……時計台や地下水の異常だけならまだしも、空まで変わってしまうなんて……こうなったらシレアだけの問題じゃなくなるわ」
「ああ。ずれが生じているのは我が国だけではないらしいな。だがテハイザの仕掛けた暴動を止めないことには落ち着いて事に当たれない」
 前代未聞の異常事態に王都へ入り込んだ暴徒の行いが王女を害する最悪の事態は免れ、気絶した賊は塔の中で縛り上げてある。いま第一に為すべきは城へ攻め入った蛮族から臣下を守ること、そして何よりも急速に進む異常事態の解決だ。
 カエルムを迎えた王女と共にあったのは、時計台とは別のシレアの至宝。カエルムの指環と同じく、先祖代々伝えられる鈴と鼓の二つの神器である。
 時計の針も天も何も示さない中、両の楽器は常と同じ美しさを保っていた。
「まるで世界そのものが狂ったみたいだな。新月のはずだが、これで月まで出て来たら……時計だけでなく自然の秩序まで異常をきたしたというのか?」
 馬の背に揺れて、鈴の清らかなが鳴る。本来なら止まることのない不思議な力を有した、シレアの時計台の鐘が鳴らすのとよく似た妙なる音。
 ふと、妹がよく通る声で切り出した。
「お兄様、お願いがあります」
「ん?」
「先に城へ。私は、時計台へ行きます」
「時計台?」
「思いついたことがあるの。多分……全てうまく行くわ」
 聡い王女いもうとのことである。その勘は確実だと言って良い。
「分かった。こちらは任せなさい」
 目を見れば解る。全幅の信頼を置いて良い。それなら自分がやるべきは、城に侵攻した賊を片付けることだ。高く聳え立つ時計台を前方に見ながら、カエルムは城へ向かう道へ折れた。妹を乗せた馬の背は、迷いなく鐘楼へ駆けていく。
 城下を駆け走る間に、武器を手に騎乗した料理長ともすれ違った。テハイザ側の手勢は恐らく精鋭、ただし少数。大部分は王城を侵攻し、城外に出た幾人かは、料理長以外にも城の衛士数人が追っていると報告を受けた。
 ——私の留守中の奇襲とは……簡単にシレアが陥ちると思うな。
 馬の速度を速めながらカエルムは舌打ちした。シレア城の守りは固い。だが、いくらなんでも全員が無傷というわけには済まないだろう。
 視界の先に小さな渡しが見えてきた。シューザリエ大河から引いた水路の一つにかかるものだ。
 ——なんだ、これは……?!
 自分の目を疑った。通常なら一方向へ流れるはずの水流が、水路の途中で対流を起こしているのである。
 ——天だけではなく、地の秩序にまでも乱れが生じている?
 先ほど、シレアの領内に入ったあたりで凄まじい地鳴りとともに大地が揺れた。あれも何かの兆しか。
 テハイザからの侵入者とこの異常事態の両方を同時に相手にする余裕はない。ともかく一刻も早く、元の秩序を取り戻さなければ。カエルムはテハイザ王から受け取った碧玉と珊瑚の飾りを握りしめ、眼前に近づいてきた城へ馬を馳せた。

 ***

「殿下!」
 城門から息を切らして駆け出てきたのは王女付きの侍女だった。手に短刀を持ってはいるが、見たところ負傷はない。
「ソナーレ、良かった無事で。皆は」
「戦えない女官とお年寄は秘密扉の部屋に! 皆無事です。窓からお姿が見えて、私だけ」
「賊はどこに」
「上階で大臣達が相手を」
「地下には」
 相手の数が多くないのであれば、上階は大臣ほか数名だけで事足りる。留守中に城に残した衛士の実力を考えれば十分太刀打ちできるはずだ。そうなれば、問題は地下水である。
「衛士が向かったはずですが、賊が入った可能性も」
「分かった。ソナーレは女官達とともに隠し部屋へ戻りなさい。こちらから指示を出すまで絶対に部屋から動かないで」
 シレア城内には万一の時のための隠し部屋がいくつか設けられている。内部から外は見えるが、部屋の外からその存在はそう簡単には解らない。扉を開ける方法にもひと工夫施され、外部者の進入はまず不可能である。カエルムは城内に入ろうと馬から跳び降りた。
「殿下、あの人は」
 城の扉に手を置いたカエルムの背に、侍女が喉に詰まった声で問いかけた。
「ロスは無事でいる。まだテハイザ城だが、大丈夫、彼なら心配ない」
 振り返って微笑んでやると、気丈ながらもどこか不安げだった侍女の顔が安堵に緩み、すぐに強気な笑みに変わった。
「その心配はしていませんわ。あの人がちゃんと働いているのか、そちらが気がかりでしたの」
「常ながら助けられている。だから、無事で帰りを待ってやれ。早く部屋へ」
 そう言い置いて、カエルムは城の中へ駆け入った。

 ***

 地階の廊下に人影はなかった。侍女の言う通り、乱入者と衛士の一団は上階へ上ったのだろう。入り口から近い階段で一部の装飾が壊され、木彫りの手摺りには刀傷が見られる。まだ死者は見ていないが、自国の城で血が流れた跡に怒りがこみ上げてくる。
 料理長の目算にたがわず、城内に侵攻した賊の数は多くなかったらしい。上階にどれほどの数がいるか知れないが、それなりの数で攻め入ったのなら低層でも城の衛士とそこかしこで乱闘になるのは必至である。しかしここまでの廊下に倒れる兵はいなかった。ほぼ全員が上階での戦いにもつれ込んだか。
 とはいえ下層へ向かう途中で、カエルム自身もテハイザの紋章を身につけた男二人と剣を交える羽目になった。両者を失神させて動きを封じ、カエルムは城の内奥、地下中央へひた走った。
 城の最下層階に辿り着いたカエルムは、シレアの地下水が流れるはずの部屋へ廊下を進んでいった。上で乱闘が起きているとは思えない、不気味な静寂がたちこめる。木製の調度品が多い地階とは対照的な石造りの通路は秋の夜気に冷え、剥き出しの石壁が足音を高く響かせる。
 地下水が流れる件の部屋の前まで来て、カエルムは違和感を覚えて立ち止まった。
「その首、もらった」
 刃鳴りもせずに突如眼前で剣先が煌めき、カエルムは咄嗟に身を沈めた。空を切ったはがねが再び自分に向かうのを見切って自らの剣で撥ね返し、床に手をつく。手首をばねに体勢を変え、部屋から飛び出した男の懐に飛び込むと、相手の脇腹を柄でしたたかに強打した。
「勝負あったな」
 床に倒れた男の耳すれすれに剣を立て、カエルムは襲撃者の手から滑り落ちた剣を廊下の先に蹴り飛ばした。上乗りになって男の動きを封じ、絶句して強張った相手の顔を睨み付ける。
 その風貌には、見覚えがあった。
 短く切り揃えた髪は、黒に近い深い色。そして、意志の強そうな瞳の色は濃紺。カエルムの脳裡に、溌剌とした少女の笑顔が浮かんだ。
故郷くにに小さな娘と……外へ出た息子がいるだろう」
「なぜ、それを……」
 男の喉から掠れ声が絞り出された。
「帰って奸臣ではなく、テハイザ国王陛下御本人の御意向に耳を傾け、忠義を尽くせ。聡明な子供たちのためにも」
 聞いた言葉に瞳孔を開き、起き上がろうとする男の頭を手刀で再び床に落とす。完全に気を失ったのを確認して、カエルムは地下水の流れる部屋の内部に脚を踏み入れた。

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