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天空の標 第二十七話

第九章 波瀾(三)

 風力がよほど怖かったのか、廊下に戻ってもスピカの手はロスの服を強く掴んだままだった。この小さな体なら無理もない。吹き飛ばされてもおかしくない軽さだ。その掌をそっと開いてやると、ロスはかがんでスピカと目線の高さを合わせる。
「すごい雨だな。こんな天気はよくあるのかい」
 言葉をかけられて少し緊張が弱まったのか、固くなっていたスピカの肩が落ちる。
「海の天気は変わりやすいから、時々は。多分、明日になっちゃえばもう大丈夫だと思うの。だから……安心していいわよ」
「そうか。心配、ありがとさん」
 ロスは軽く笑い、スピカの髪をくしゃりとさせて頭をぽんぽん叩いてやる。昨日と違って子供扱いするなと抗議するかと思ったが、今度はスピカも怒らず、されるままになっていた。
「ところで」
 その顔に恥ずかしそうな笑みが浮かぶのを確かめてから、ロスは切り出した。
「城に一番近いところの水面に、変わった区画があっただろう? あれは、何のための?」
 スピカは首を傾げて「何のため?」とロスの質問を異口同音に繰り返す。
「何のために使うのかとかは、そういえば聞いたことないかも。兄さんなら知ってるのかな。ずっと昔からあるんじゃないかな」
 城の建設当初からだろうか。水面の位置は城の造りと照らし合わせても無理に造られた様子はない。水面を切り取る形に城を建てた? そうだとするとますます、その理由が気になる。
 疑問がロスの頭にまとまりなく浮かぶ。そんなロスを余所よそに、スピカの言葉は脈絡なく続く。
「でもね、あそこ綺麗なのよ。明るくなってぱっとするの。夜になって高いところから見るでしょ。そうすると暗い中であったかいの」
「夜になると、光る?」
 おそらく本人は特に考えもなく、常日頃に自分が目にしていることを思いつくまま話しているだけなのだろう。子供にはありがちなことだ。
「そう! 黄色でもないし、白でもないし、お日様みたいなの。今日はお天気がひどいけど、あっかるいから見られるんじゃないかしら」
 頬を紅潮させてスピカは説明する。毎日眺めているのだろうか。ただ、それはスピカにとって日常のものであっても、ロスにとっては極めて不可思議で重要な情報だった。
 ——テハイザにも、シレアと同じように人には分からない仕組みの代物があるということか……?
 カエルムはこれを知っているのだろうか。昨晩、クルックスと共に露台に訪れた際に見ていたか。新しく現れた謎に、ロスの頭に様々な思考が渦巻く。そんな様子に気づいてか、スピカがロスの袖をまたも引っ張った。
「それよりおにーさん、そろそろ戻る? 王子様のとこ」
「ん、ああ……そうだな。また案内、頼むよ」
 今しがたの恐怖はどこへやら、スピカは元気よく了承し、ロスに先立って城の内奥へ足を踏み出した。先とは別の道を通ってカエルムの居室の方面へ戻る。話しながら元気よく歩いていくスピカの歩調は速かったが、ある角を曲がったところで突然立ち止まった。
「あ、ちょっと待って。伝書鳩」
 足を止めた場所の脇の壁には、細く開いたところがあった。薄暗いその中に、人が一人やっと通れるほどの狭い階段が上へ螺旋状に昇っている。
「少しここで待ってて。見てくる」
 そう言ってスピカはロスの腕の下をくぐり抜け、階段を軽々と駆け昇る。瞬く間にその姿が見えなくなった。
 ロスはスピカが吸い込まれて行った段の下から上方を見上げる。一応、まばらに火が灯されているようだが、廊下と比べると随分と暗い。ぼんやり照らされた壁には装飾が一つとしてない。石が剥き出しになっており、ところどころに見える摩耗やひびに年代が感じられる。
 シレアにはない珍しい材質の白石をまじまじと観察していると、大きな羽音が一つ。いや、二つか? 遠くから聞こえた。その直後、遠のいたはずのスピカの足音がもう近くまで降りてきて、すぐに廊下の明るさの中へ小さい体が飛び込んできた。
「来てたわ。おにーさんたちへの」
 肩を上下させながら突き出されたのは、紅葉の細紐で巻かれた書状——シレアの王女のみが使う標である。先端には、紅葉を二つ重ねた印章。
 その意味するところは、国の大事。
 ロスは即座に組紐を解いて書面に目を通し、そしてそこにしたためられたしらせに言葉を失った。

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