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辛くて窮屈だと思っていた自分の人生にも、ちゃんと道は用意されていた。

何で自分ばっかり
こんな思いをしなければならないのだろう。

何度もそう思ってきた。

人生の中での様々な選択を、
自分自身の手でしてきたとは思っている。

いくつもの道を目の前にして、
これにしよう、
と決めて歩んできた。

でも

その道の一つ一つは
とても狭くて
暗くて
不安定で。

何だか不安で、
急足で進んできたような気がする。


どの道であっても
細い道であることには変わりないので、
どう歩むかよりも
どこに辿り着けるかが重要。
過程より結果。
そんな道のりだったように思える。


今は、
というと、

選択肢の道こそ先に見えないけれど
今歩んでいる道の幅が
広がってきたように感じる。


それはグラデーションになっていて、
端っこだったり、
真ん中だったり、
広い道のどこを歩いてもいい。
それすら自分で決めていい。

そんな風に思えるようになった。

それはつまり、
結果的にどうなるか、
ということ以前が重要になったということ。

過程の中で、
今までのように
相手を優先する自分でいてもいいし、
ちょっと自由で、
自分の気持ちを優先する
新しい自分でもいい。

広い道を左右に走り回って、
それ自体を楽しんでいる。
そんな感じ。

いつから道幅が広がったのだろう、
と考えていると

ものすごいことに気づいてしまった。

それはまるで

ずっと優しかった友人が
実は真犯人だったと明らかになった
ドラマの最終回のような。

10年前に失くしたと思っていた宝物が
今着ている服のポケットから
突然出てきたような。

それくらいの衝撃を
私に与えてくれたのは、

ずっと昔から、
道幅は広かったんじゃないか。


たったこれだけのことだった。

光が当たっていた場所が
ほんの一部だったから、
自分には細い道に見えていた。

でも、
気づいていなかっただけで、
実は自分にもちゃんと
幅広い道は用意されていた。


その事実が、
衝撃的で、
すごくショックで、
少し苦しくて、
そして、
涙が止まらなくなるくらい
嬉しかった。



道を狭く感じていたことについて
自分のせいだと責める必要はない。
道が用意されていたと気づくということは
時に理不尽で、
納得がいかなくて、
信じられなくて、
残酷だ。

でも同時に、
もしも用意されていたとしたら?
そしてこれからも、
今現在も、
そうなのだとしたら?
この喜びを、
誰かに伝えたい。

これまでの自分の歩み方も
間違っていたわけではない。
むしろその時期があったからこそ
今の喜びを噛み締めることができる。

全部合っていたんだ。
そしてこれからも、
全部合っているんだと。


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