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なぜ人は他人のレスバトルが気になるのか

 あなたは、今までの人生でレスバトルをしたことがあるだろうか?
あるだろう(断言)

 ジョルノ・ジョバーナには夢があるように、私には趣味がある。
 ソシャゲのガチャから排出されたらRであろう普通社会人間のいっぱしである私にも、ほかの人と同じように当たり前に趣味をもっている。
 そして当然その趣味繋がりで出来たコミュニティに自然とあつまって、所属する運びとなった人生を歩んでいるのである。
 目的を同じとする人間が集まった社会的コミュニティの中では、みんな太陽に顔を向ける向日葵のように同じ方向を向いて、快活な話し合いが行われているものだ。
 だが、その話し合いの中のどれだけが有意義なものであろうか。
言っても人間、無駄と娯楽にふけるものだ。
 人間の会話、そのほとんどが感情や身の上話に傾倒したものであることはよく知られた話であり、基本的に社会の発展の礎としての意味のある会話などしない。
 でも、同じ目的を持った人間が集まるとたまに発展性を求めた会話が行われることがある。
 建設的な会話というものに対するスペックがあまりにも低く、ハードルの高さが浮き彫りになる悲しき生物、人間。

 そもそも、建設的な会話とされるものの構造は、自分の考えを通すところから始まる。
 横文字を用いて表現すればある落としどころへとコンセンサスを取るためのイニシエーションであるのが議論であるはずだ。
 だから、議論は結論という名のエゴを通すためにお互いは自分の意見をせめぎ合わせる行事となる。

 まあ、何に対しても折衷案を出すことが出来ればいいのだが、気持ちの折り合いをつけるために人は良くも悪くも人の意見を否定する状況に立たされるはずだ。
 人の意見を否定する、あるいは自分の意見の利点を誇示するためには、相手の主義主張の瑕疵を指摘することを避けては通れない。
 だから、結局やってることは、言葉の武器を用いて相手を負かすことと相違はないのではないか。
 議論とレスバトルって何が違うのだろうか。
 私、気になります。

 そもそも、レスバトルって「する」ものなのだろうか、レスバトルはサ行変格活用として生きていくべきなのか?
 私は、名詞+するの形で日本語を用いることを、ら抜き言葉と同じくらい嫌う警察のうちの一人である。
 将来、世の中でレスバトるみたな造語を用いられることを期待する派閥である。
 それはそれで醜いなと、字面を見て思ったので撤回する。

 人はなかなかどうして、試合鑑賞というものが好きだ。
 これは、既にエンタメとして消費される当たり前に広まった人間の文化の代表であり、たとえば今はスポーツ観戦がその最たる例である。
 昔まで遡ってみるなら闘牛あたりが現生人類には闘争を好む傾向を顕示しているだろうか。
 戦争のような大規模抗争や、クラス内のプリンじゃんけんに至るまで、争いというものは大層魅力的なものであって、それは周囲の人の野次馬根性に火をつけ、どちらが勝利するのか、どのように勝利するのかを、予想させ気分を昂らせる能力を持つものである。
 人間、昔から争いが大好きである。

 そして更に悲しいことに、戦いというのは、それがどんなに醜くとも実力が拮抗していればいるほど面白くなる。
 特に醜い争いを観戦することは、観戦者に心の優位性を持たせて、ある意味悪い自己認識の欲求を充足させる一石二鳥のコンテンツとしても働くため、安全圏から余裕しゃくしゃくで見ることの出来る、嘗ての列強の振る舞いを思い起こさせる、人間の傲慢さが如実に顕れた文化といえる。
 だから、対岸の火事よろしく、ネット上という自分が絶対に危害が及ばない環境下で半永久的に生産され続ける、良質で絶品な「おやつ」こそがレスバトルなのである。
 このような、人間には咎とも言える傾向があらかじめ設定されているなか、ネットという匿名性を担保する舞台装置が整うことで、ようこそディストピア、愚かなレスバトルを無限に摂取する環境が生まれた訳である。
 悲しき哉、人間。

 本記事はここで終わりとなります。
 この年度代わりの時期、私生活が忙しかったことをblog更新停止の言い訳としながら今回は筆をおきます。
 読んでいただきありがとうございました。
 次回もよろしくお願いします。


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