自己責任説に限界を感じた話

今日の山本太郎さんの街頭演説を聞いてるともうたまらない気持ちになったので書きます。


ヤジを飛ばす人に対して「この人全然話聞いてないやん」とか「もっと考えまとめてから話してほしい」とか思ってしまった。でも、太郎さんはちゃんと聞いてた。そして、その人の抱えてる苦しさを引き出した(中盤かな?ぜひ見てみてほしい…)。

とことん話を聞き、台本なしで自分のビジョンを自分の言葉で語る太郎さんの姿勢を見てると、自分の聞く姿勢がどれだけ不寛容なもので他者受容から程遠いか気付かされた。


変えたい。自分が社会から圧迫されていると感じる生きづらさと同時に、自分も誰かを抑圧したりヘイトしたり誹謗中傷したりしている不寛容さをどうにかしたい。

この2つは、自己責任なんだろうか。自分だけが抱いてる感情なんだろうか。

社会に蔓延している窮屈さの原因は、私自身にあるものではなくて(あえて、こう断言するよ)社会の仕組み、ひいては政治のやり方にあると思う。つまり、変えられる。


じゃあ私たちは、(選挙は置いといて)政治にどうやって関われるんだろう。最近のことも踏まえて考えてみる。

結論から言うと、「知ること」から政治参加は始まってると思う。


検察庁法や国民投票法等々の件で、ツイッターは民意を示す立派な手段になりえるなって実感した。色々調べたのに私は自分の意見をくっつける勇気が出なくてハッシュタグしかつぶやけなかったけど。

配信(Choose Life Projectをよく見てた)も面白くて、いろんな人の立場を知ると同時に自分がどう思うかを考え直すいい時間になった。


一つの事柄に対してそれがどういう意味を持つのか、賛成/反対派はどういう理由で賛成/反対しているのか、それを踏まえて自分はどう思うかを考え、さらには気が向いたら発信してみるっていう、「知る」から始まる一連の流れ自体が、もう参加になってる。

そこにたどり着くまでが難しいんだよっていうのはあるかもしれない。普段なんとなくついったー見てるだけの人がどうやって「知(ろうとす)る」までたどり着くかについてはちょっと保留。


と、ここまで書いといて、一人一人が自分の意見を持てるようになることは大事だとは思う。でも、知らないことが悪いわけじゃない。行動できないことが悪いんじゃない。興味ない人に無理やり自分の意見を持てとも、正直思わない。

必要だと自分が思えないと響くものも響かないのは自分も然り、今までそうして来なかった人や何らかパワーレスな状態に陥っている人々にとって「思考せよ、自分を持て」というのは非常に苦痛を伴うものだというのもある。教育はそれに反して黙らせる志向だし。

ただ、もし、自己責任に落とし込んで日々を何とかやりくりするのに限界を感じているんであれば、それもしかしたら、社会構造の問題かもよ、政治から変えていける事柄かもしれないよ。とは思う。

政治に対する観念的ハードルの高さ、ちょっとでも下げていけたらなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?