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助産実習の分娩介助一例目の記憶は美化したいけれど到底できぬ。

助産実習をご存じだろうか。

看護実習を経験したことのある人は多いでしょう。
なんてったって看護師は日本に170万人もいるらしい。

かたや、助産師はどうだろうか。

なんと約4万人。

少なすぎる。

いや、分からん。
少子高齢化の進んだ日本には、適当な人数なのかもしれぬ。まあ、なんだっていい。要するに、助産実習を経験したことがある人はとても少ない。
そんな気がしている。

「助産実習って結局、何をするんですか」
「いろいろです」 

「助産学生って結局、どんな感じなんですか」
「生きる屍です」

「そんな思いをしてまで、何で頑張るんですか」
「もう入学したんだから、やるしかないでしょう」

こんな感じです。

助産学生時代の自分を思い出すと、当時の苦虫を嚙み潰したような表情を完璧に再現できる。そんな時間を耐え抜いた助産学生時代の私を、今の私はいつまでも尊敬してやまない。

助産実習前、あれは肌に汗がじんわりと滲むような季節で。家族から「みかん実習がんばれケーキ」を用意してもらい、ケーキを食べながら「行ぎだぐない」と大号泣する私を我が親愛なる両親は、憐みと同情と心配を含んだ視線で見つめてくる。この年齢になっても多大なる心配をかけて誠に申し訳なかった。そしてケーキはいつだって美味しかった。

これから始まる助産実習のことを考えると、自分の精神がナイフとフォークを使ったようにどこまでも細かく刻まれていく。実習中の自分の無気力な姿と、自己嫌悪の穴に深く潜って全く出てこようとしない自分の姿がいとも簡単に想像できる。身震いがする。逃げ出したくなる。でも、ここまで来たわけで。逃げる勇気もなければ、立ち向かう勇気もないわけで。被害者ヅラする準備だけは十分できているわけで。なりたかった自分がどこにも見当たらなくてベソをかく。

初めての分娩介助を思い出す。

「産婦さんが来られます」と病院から連絡が来た私は、ありったけの参考書と食料と水分を鞄に詰め込んで、スラム街に足を踏み入れたような気分になりながら暗い暗い夜の病棟に足を踏み入れた。

そんな私を見て指導者さんが「取って食うわけじゃないんだから」とけらけら笑う。かたや私は「あなたが優しいのか、恐ろしい人なのか、そこが今の私にとって何よりも重要なターニングポイントなわけで、今夜もしくは明日の朝、私が分娩介助を好きになれるか、助産師を好きになれるかどうかは、指導者さん、あなたに懸かっています」というような果てなく情けない他力本願な言葉が脳内にて流れていた。そんな本心を隠して私は指導者さんにへらりと愛想笑いをする。

「情報収集とは?」「カルテのどこに何が載っているんですか?」「何が大切な情報?」という感じで電子カルテの前で私はパニックになる。取り敢えず、メモ帳に情報を書きなぐり、よく分からんまま産婦さんに「助産学生のみかんです、お願いします」と頭を下げ、内診してみるも「どこの何がなに?私に何を分かれと言うんだ」と疑問と戸惑いがのんすとっぷ止まらない。産婦さんにとっても、1回の内診ですら痛いだろうに、嫌だろうに、羞恥心だってあるだろうに、指導者さんと私で毎回2回内診させてもらう。こんなに未熟な私を受け入れてくれた産婦さんへの感謝はいつだって爆発する。今でも私は受け持った産婦さんへの思い入れは強い。初めての分娩介助があの方で良かったと心から思っている。頂いたお手紙は棚の奥底に閉まってる。貰った言葉も海馬の箪笥に閉まってる。助産師を続けることができている理由の一つが、きっとあの受け持ちさんの存在なのです。

内診と陣痛間隔などを見て分娩予測やら今後のケア計画を発表するわけだけれど、とんちんかんなことしか言わない私でございます。指導者さんが首を傾げる。私も傾げる。優しい指導者さんじゃなければ、おそらく処刑台行きだった。私に丁寧に教えてくれるその様はほぼ菩薩だった。私は過去も現在も未来でも恐らく丁寧で優しい方が大好きです。そんな人間に私もなりたい。

担当させて貰える感謝の念を持ちながらも、時計が夜と朝の真ん中のあたりを動く中で腰をさすり続ける私の意識は朦朧としていく。視界が揺らんで歪んで瞼は勝手に落ちてくる。助産師は夜勤前に休息をとることができるけれど、助産学生は日中は実習に行くし、夜にお産があれば何時でも病棟直行なので、必然的にオールナイトニッポンなのです。なんて恐ろしい。なんて悲しい。なんて哀れ。そんな助産学生への憂いの感情が溢れていく。

そのまま朝を迎え、よく分からんがいつの間にか指導者さんが分娩体位を取り始め、私は清潔野を必死に作り、滅菌手袋とガウンを羽織る。手汗で手袋は入らぬ。会陰保護ガーゼの厚みはこんな感じでいいのか分からぬ。分娩台の高さはこんな感じでいいのか分からぬ。今の状態が正常なのか異常なのかもよく分からぬ。赤子の心拍を見る余裕などない。とにかくついて行かねばならぬ。後ろでガウンの紐を指導者さんが結んでくれる。あれはちょっと嬉しかった。

指導者さんはちゃんと根拠を持って行動しているのは分かるのだけれど、産婦さんや陣痛の波に乗るというよりも、指導者さんに付いていくことで私は必死。排臨あたりから、私の目からだばだば涙がこぼれ始める。あれは一体なんの涙だったのか、今でもよく分からない。あろうことか、あの1日を、あの感情を、私は日記に一言も書いていないのです。大抵のことは書き留めている私ですが、一例目の分娩介助のことは何も書いてない。帰った途端に寝て、記録に追われて、自分の感情と向き合う余裕がなかったんだろうと思う。でも、向き合ったところで、あの感情はやっぱりよく分からなかったような気もする。

ただ、覚えてることは、排臨から私は号泣してた。たいして綺麗でもない涙をぼろぼろ溢していた。間欠時に産婦さんの呼吸を整える声と、私が鼻をすする音が分娩室に響き渡っていることがとても恥ずかしかった。周囲のスタッフに「この子は果たして大丈夫なんだろうか」と心配されていた気もするし、「こいつは何なんだ」と異様な目で見られていた気もするし、「若いわね」と生温かい目で見られていた気もするし、もう今となっては分からない。なんだっていい。とにかく恥ずかしかった。

自分の目の前で頭を見え隠れさせる赤ちゃんの濡れた髪の毛とか、羊水の匂いとか、産婦さんが呼吸する声とか、叫ぶ声とか、自分の震える手とか、汗ばんでいく自分の身体とか、睡眠不足の頭が更に真っ白になっていく感覚とか。

自分の心臓のポンプ機能が最大威力を発揮して、交感神経が優位どころか圧倒的勝利をおさめる。あんなに分娩介助の練習をしたのに、人形じゃない本物の赤ちゃんは、胎児だった新生児は、滑るし重いし怖いし、この世で一番落としてはいけない存在で、この世で一番壊しちゃいけない存在で、そんな存在が私の両手にいる。産声が聞こえる。「第一コッヘル、第二コッヘル、クリップ」と小さく呟きながら「臍の緒を切りますね」なんて助産師みたいな言葉を言って、生まれて初めて臍帯を切る。切ったと思う。いや、分からない。私が切ったんだろうか。指導者さんが切った気もする。赤ちゃんを新生児係さんに自分が預けたのか、指導者さんが預けたのか、もう全く覚えてない。そんな一瞬だった。

胎盤を出して、産婦さんから離れて、余韻に浸る暇もなく、慌ただしく出血量やら胎盤計測やら1時間値やら2時間値やらを観察して片付けて振り返りをした。指導者さんは凄く凄く優しい人だった。結局私はそれから続く殆どの分娩介助を、この指導者さんにお世話になった。それはただの偶然なのだけれど、夜中にお産に呼ばれるたびに「また貴方ね」とカラッと笑ってくれる指導者さんの姿は私の心を朗らかにさせた。実習を耐え抜くことができた理由の一つは「尊敬できる助産師さん」がそばにいてくれたからだと思う。学生時代に出逢う教員や指導者さんの存在は、良くも悪くもその後の私達に深い影響を及ぼす。

生まれて初めての分娩介助後、私はへとへとになりながら着替えて帰宅して熱い熱いシャワーを浴びてぼんやりとさっきまでの光景を思い返した。何が何だか分からんし、大泣きするし、なんだかずっと情けなかった。「とんでもない世界だわ」と呟いたりする。「好きになれるかは分からない。でも、小さな頃からの夢は、今日叶った」と思いながら冷たい冷たいオレンジジュースを口にした。それはもう、黄泉の国から持ってきたのかと思うほど美味しかったのです。

助産実習を迎える私へ。

精神と体力と気力が果てしなく削られて落ちていくけれど、目の前にある課題のような試練のようなものに食らいついていたら大体負け続けるのだけれど、まあ終わります。絶対に終わります。頑張ってね。私は助産師として働くなかで、助産師を辞めるべきか悩んだ回数で言えば日本一なのではないかと思うくらい失敗も重ねてきて、助産師の仕事を好きになれない時もあって、それでもやっぱり助産師が魅力的な仕事であることも揺るぎない事実であって、続けるか辞めるか振り子時計のように悩む日々を今でも送ってる。正解は分からない。

お産は怖い。自分自身のことも怖い。
でも時々ありったけのご褒美を集めたような時間もやってくる。だからまあ、いけるところまでいってみてください。

あなたのペースで参ってくだされ。

今の私はそんな感じ。


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