コロナ禍で見たもの:支配と言語

前回の記事は、現場にいた者としての個人的な記述だったが、一歩引いてコロナ禍と人間のことも書いておきたい。

哲学者ヘーゲルの有名な言葉に次のものがある。

「ミネルヴァの梟は黄昏になってはじめて飛び立つ」(『精神現象学』)

私は哲学徒として、ヘーゲルのこの言葉を常に指針にしている。つまるところ、思想というのは時代性を超えることはできないのであり、常にその時代を洞察しその中で時代を最も把捉した思想(概念)を生み出すことが哲学の役目であるということだ。
それには歴史文脈や政治・社会への冷徹な視線と、それらがとりこぼすポストコロニアル的ないし全体から疎外されたミクロなものたち、そしてこれまでの思想史を含むあらゆる学への智慧が不可欠である。そこに必要なのは、同一性を軸としたコミュニティやサロンのような無為な連帯ではない。他者性は実際の他者以上に歴史や社会、そして学の中に宿っている。

それを理解することは哲学における1歩目であり、いくら雑多な知識や享受が増えたとして、そこを踏まえないものに意味はないと私は考えている。(現にヘーゲルはこの文を『精神現象学』の「序文」で記している)

前置きが長くなったが、このコロナ禍について思うことはシンプルだ。
それは人間の欲望と理性、そして支配との親密な関係性である。

私は人間の理性というものを、「主観に対象を従わせる装置」だと考えている。
これはカントの言うような超越論的な認識原理のみに限った話ではなく、ヘーゲルの理性概念(理性とは自己意識の展開プロセスで発揮される能力である)にある程度準拠している。また、理性に対する疑義は種々の現代思想(フランクフルト学派やポストモダニズム)とその問題意識を共有している。

このことは極めて重大なテーゼで、あらゆる認識や理解というものはそれが主観に属する限り(人間が主観を超えることはできない)、それは主体による対象の「支配」である。

これは理性の本質にも深く関わっている。理性は物事を抽象化したり、あるいは分類・綜合したりするが、その役割には実際のところ支配的な権力が宿っている。それは対象の個別性を排除し主観に同一化させることであるからだ。

この同一化作用は人間において極めて深く本質に絡みついていると考える。欲望というと、個別的で特殊なものに聞こえるが、実際はヘーゲルが述べるような自己確信を求める作用に過ぎない。別の言い方をするならば、フロイト派やラカン派が考えるような究極的には死へ向かうものとなる自己安定化の作用である。

この欲望というものは外界に関わりながら常に流動的であるが故に、自己確信ないし自己安定化を求めながらも分裂していく悲劇を背負っているのだが、他を同一化させることで自らと外界に固定性を与えようとする。その主体と客体の関係性にこそ自己安定を見出すのであるが、それはすなわち支配である。

支配関係は当然に、支配者と被支配者を内包するが、既述からすると、被支配者が何故その立場でいることを少なからず認めているかということに疑問が残るだろう。
このことにも人間の同一化本性が作動している。自らの快・不快原理に差し障りがあるにしても、自己安定化(自我の「生存」と言ってもよい)のために支配関係に組み込まれること、つまり同一化権力を自己に内面化することのほうが利する場合がある。これはある意味「社会的動物」である人間にとって避けようのない運命であり、それこそが被支配の原理である。

この支配関係において重要な役割を果たすのは、言語である。
言語はそれ自身が理性的な産物であり、同一化のための記号である。
言語はその発話者に関わるものでもあり、そのリズムや音量だけではなく、文体や発話者の印象といったあらゆる感性的要因が支配権力の補強となる。
つまるところ、会話というのは支配関係の条件であり、同一性の確認作業の様態である。
あるいは、支配権をめぐる終わりのないパワーゲームとも言える。

あらゆるコミュニティそれ自体が何がしか同一的なひとつの総体である以上、それは同一性の関係性であり、当然支配関係を前提とするが、ミクロなレベルでは、会話がひとつの支配装置である。

存在が本質的に差異的である以上、共同体というものは、見せかけの幻想に過ぎないが、理性はそれらを忘れさせようと努め、自らと他は「繋がっている」あるいは「共有している」という享楽的な夢を見せる。それは自身が自己確信のために望んでいることでもあり、その中には個の特殊性の排除やコミュニティ外の否定が常に内包されている。
この中では、例えどれほどの誤魔化しが覆い隠そうとしても、「自我の生存を賭した闘い」が行われている。それは自己確信の願いであり、理性の作用であり、そして支配関係である。

本来的に存在とは個の認識に含まれることはなく、認識とは全く存在ではない。理解しようといくら観念をあてがっても、存在はそれをすり抜け無限に解釈だけが連なっていくのみである。そしてあらゆる背景や文脈を踏まえたとしても、他者に理解という名の「印象」を加え、接近しようと試み、それを共有することは「暴力」である。
その認識と存在のずれは常に本性が忘却させようとするものであり、その成功するところに支配が潜り込む余地がある。

コロナ禍で私が見たのは、このどうしようもないほどの支配の跋扈だった。
日本では、ロックダウンを望む声が絶えなかったが、本来はそれを望むのは文字通りの権力者である。
ドイツのメルケル首相のスピーチにも現れている通り(知らない人は全文読むことを強く推奨する)、本来であれば人々の移動を権力的に制限することは重大な人権侵害であり、個の存在にとって自由を侵す屈辱的なものである。これは、死刑以外の懲役刑が本質的に人間の移動を制限するものであることからも明らかである。

だからこそ、それの発動には西欧民主諸国の多くの市民が抵抗したのであるが、日本では真逆であった。
為政者側がむしろその発動に躊躇し(そこには政治的な諸々もあったであろうが)、市民側がその制限を自ら望んだのである。
これは自分達の自由を自ら手放すことであり、本来望まれるものではないはずだが、そこには自由を享受しようとする人間を「法外なもの」として理解し、自らに同一化させようとする欲望が作動している。
さらには実際の行為を媒介した直接的な同一化支配(「コロナ警察」「自粛警察」などと呼ばれた)や、インターネットで言語を媒介とした支配権力をめぐる極めて単純化された闘争があった。

これらは特別な現象ではなくて、あくまで上で述べた人間本性の延長にある素朴な暴露である。
私がコロナ禍でそれを確信するに至ったのはむしろあまりに遅すぎた。
ICT技術の発展やSNSの浸透で人々の物理的距離は極限まで縮まり、接触機会も増えたが、これらは人間の支配関係を補強したに過ぎない。透明な権力で他者を支配しようとし、自己自身を監視しながら被支配に身を任せる。これは外化された理性の内面化の応酬、つまり反省的相互自己懲罰である。

暴力装置は最早支配において本質的でないことは、政治理論を参照するまでもなく想像のつくところであるが、支配の権力は着実に強まっていると言わざるを得ないように思う。
それは、棍棒や拳銃を持って我々に現れる以前に、むしろそれらに超越論的に優越して、私がいま笑い合い語らい合うその関係性の中にこそある。
それにおける主体同士の交錯による流動性や変転などは、単なる同一化闘争の結果としての支配/被支配の絡まり合いに過ぎない。
本質的な議論は、排除や抑圧を透明化する同一化作用としての支配についてである。
これらを踏まえない共同体論や他者論は根本的に空虚であり何らの価値もない。

人間のこの本質の非完全性は完全性のような振りをして、常に野蛮化の機会を戦略的に伺っている。
必要なことはそれに対するまなざしであり、自己自身と世界に対する絶対的な否定性である。

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