素晴らしき人生
先日、好きなラーメン店で食事していた時、テーブルの周りを小さな羽虫が飛び回っていた。無視していたが、私の周りをやたらと飛ぶので叩いてつぶした。するとそれは、ラーメンのスープの中にぽとりと落ちた。私はレンゲで掬い出し、ティッシュに移してから何事もなかったかのようにラーメンを食べた。
些末な出来事だった。でも、その時「あぁ、これは私の人生そのものだ」と思った。
誰のところでもなく飛んでいたはずの虫は、なぜか私のそばにくると執拗に食事を遮った。自衛したつもりが、かえって事態を悪化させた。私の人生はこういうことの積み重ねで出来ていた。
たかがこれだけの出来事、だ。その程度のことが私を死にたくさせた。そこに全てが詰まっていたから。
その日から数週間ほど前、ODをした。死のうとしたわけではない。でも、死にたかった。あまりに気分が悪くて、このままでは自分の感情に殺されてしまうと思った夜、ブロン錠を引き出しから取り出した。
きっちり20錠数えた。この前は15錠で何も感じなかったから、今度は5錠増やしてみよう。
5錠ずつを4列に並べた。この並べ方がいちばん数えやすいのだ。
飲んだ後はいい気分だった。深夜2時にご機嫌で散歩をした。エナジードリンクも飲むとさらに心地よくなり、フラッシュバックもなくなった。
水も飲まずにずっとゲームをしていたからか、翌朝体調を崩した。
激しい手足の痺れ、腹痛と吐き気、過呼吸。救急車で運ばれることになってしまった。
医者は、薬を飲むのは自己責任だが、こういうことで運ばれるのはやめた方がいい、と私に注意した。限られた医療リソースをODごときに割くのはいい迷惑だったろう。当然の反応だった。
私はてっきりODを叱られるものと思っていた。誰もそれを咎めなかったことに孤独を感じた自分がとてつもなく不快だった。
そして、ODすらまともに出来ない自分に心底呆れた。
カウンセリングで、現在は苦しく、過去も不幸を積み重ね続け、未来には希望も何もないと話すと、「それはあなたが今後も持続することを前提としている」と言われた。私の認知が変わっていけば、未来の在り方も変わるだろうと。今はその変化の途上にいるそうだ。
ドゥルーズの生成変化のような話だと捉えた。認識論的にいえば、認識原理が変われば経験や世界が変化するというのは確かにその通りだと思った。
でもダメなのだ。些細な出来事で過去がフラッシュバックし、貯まっていた気力がリセットされてしまう。意識が、情動から逃げることを許さない。死が常にそばにいて、甘言をささやく。
苦しみを辿っていくと、「生まれてきたことが間違いだった」といういつも通りの結論に辿り着く。同じ場所をぐるぐる廻り、いい加減ウンザリしているが、出口がわからない。
悩み苦しむのは本当に時間も労力も無駄だ。私はそれをやめられないから、人間には向いていなかった。
生きることが罰なのだろう。罪を犯した魂なのかもしれない。
一昨日、意味のある無意味な文章、つまるところ「物質」を表現したくてアフォリズムを書いた。誰にも理解されないと思う。理解できたところで大した価値もない。もっと綺麗で楽しくて愛されるものがたくさんある。フンの方が肥料になるだけマシだ。
そういうものなのだ。羽虫の落ちたスープ、それが私なのだから。
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