見出し画像

脱毛広告観察記 1

フェミニズム入門ブック『シモーヌ』に、「身体の見方を学ぶために」というエッセイを寄稿した。エッセイの導入は次のようなものだ。

私には現在8歳の娘がいる。ショートパンツを履くようになった夏休み前頃から、自分の脚を眺めながら「脚に毛が生えていて嫌だ。ツルツルになりたい。」と不満を漏らしたり、「カミソリで毛を剃った後にローションを塗るとツルツルになるんだって」と、脚の毛をなくしてしまいたいという旨を訴えてきたりする。「無理に剃ったりすると、肌が傷んだり、もっと太い毛が生えてきたりするんだよ、あまり気にしない方がいいよ。」と応えるものの、私自身が同じ位の年齢の頃、体毛の濃さを気にしたことがあっただろうかと、覚束ない記憶を辿りつつ娘の心中を案じてしまう。少なくとも、「ツルツルスベスベの綺麗な肌」を謳い、体毛が濃いことにコンプレックスを植えつけるような美容脱毛産業は私の子供時代には存在しなかった。それに、生まれた頃からスマートフォンが身近にあって、自撮りをしたり、写真にフィルターをかけたり、加工を施したりすることにも手慣れた娘の世代の子どもたちにとって、自分の容姿や他人からの視線に対する意識は違うのだろう。自分の子供時代の価値観が現在も通用するとは限らないことは承知しているのだが、年端もいかない子ども達にも、美容産業の広告が影響力を持ち、ツルツルスベスベの肌こそが美しさの指標であり、誰もが目指すべきというメッセージが溢れる風潮が、世の中で「当たり前」になっている現状には受け入れがたいものがある。

首都圏で生活する私は、ここ数年、公共交通機関を利用する度に視界に入ってくる脱毛の広告の量と表現に苛ついている。脱毛自体を否定するのではない。その表現のあり方に、「受け入れがたいもの」を感じることが頻繁にあるのだ。
そのような広告を見かける度に、写真に撮りSNSで広告に対する見方をメモのように記してきたので、ここで備忘録として「脱毛広告観察記」と関連する事項を記しておきたいと思う。なぜ私にとって「受け入れがたい」のか、分析して言語化したい。

画像1

これは、リゼ(医療脱毛専門クリニック)の広告。2018年の12月に東京メトロ丸ノ内線の車内で、吊り棚の上に掲出されてた。見上げると白人女性が横たわり、胴体の上に「どんな美人も、3日で生える。」というコピーが記されている。「美人は三日で飽きる」という言い回しを捩った表現で、体毛は切ったり剃ったりしても、すぐにのびてくるということを言わんとしているのだが、まずその容姿で人を即座に判断する言葉の使い方にイラッとくる。(「イラッとさせる」ことは、注意喚起の方法の一つではあるので、私がその術中に嵌められているという点ではこの広告は機能している。)横たわった女性は右腕を頭上に伸ばし、脇の下を正面に向けている。身に纏ったレース素材のワンピースとハイヒールの靴は肌の色と同化するような色で、右膝を曲げて足のラインを強調している。横たわるポーズによって、特に脱毛するべきとされる箇所(脇や腕、膝下)が示唆されている。背景の色もモデルの肌の色に近い。

この広告を見たときに私は以下のようにツイートした。

画像2

下から見上げた時に、女性の周りにある黒い毛のようなものが、鋭利な刃物のように見えたのだった。女性は、毛に囲まれて身動きが取れない状態になっているだけではなく、あたかも背後から串刺しにされているかのようにも感じられて、そのような想像から、この広告は私の目には「暴力的な表現」に映った。

この広告を制作した東京アドデザイナースのコメントが以下に掲載されている。部分的に引用する。

「この広告の目標は、見た人にリゼクリニックの「医療脱毛」を選択してもらうこと。そのためには、医療脱毛のメリットを並べるよりも、ムダ毛があることへの嫌悪感によって医療脱毛の必要性を伝えることが効果的だと考え、毛をリアルに表現する手法を模索したという。」
(中略)
女性を囲む毛もCGを使わず、石膏で立体物を制作している。黒く塗った上からさらにマット系のニスを重ねることでキューティクル感を出し、本物の毛に近づけている。毛の先端の尖り具合も、毛の嫌な感じを伝えるためにこだわったという。モデルの表情も、どうしても生えてきてしまうムダ毛に対して、嫌気を感じ、うんざりしていることが伝わるアンニュイな表情になるように細かくディレクションした。」

「ムダ毛への嫌悪感」、「モデルのムダ毛に対する嫌気」とあるように「嫌」の感情を視覚化するための念入りな演出が功を奏している、といえば広告として成功しているのかもしれないが、モデルの白人女性のムダ毛の色は実際には黒くはないはず(彼女の頭髪はブロンド)だから、立体物として作られた体毛は、この広告の受容者の多数派として想定されている日本人(及び黒い体毛を持つ人種)のそれである。ここに、白人女性を美人の記号的な表現として扱い、憧れ、ファンタジーの対象としつつ人形のようにモノ化する態度がある。おそらく、日本人(もしくは日本人に近い印象を与える風貌を備えた)モデルが、毛を模したオブジェの中に横たわっていたら、違う印象を与えるのではないだろうか。おそらくはもっと生々しい、憧れを喚起させるものとは違う様相を呈するのではないだろうか。
なぜそこまで、公共空間の中で、視覚的な方法で「嫌」の感情を喚起させられなければならないのかと憤ると同時に、美容・ファッション産業の中での人種、肌の色に対する感覚の問題も、内包されているように思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?