見出し画像

サルのぬいぐるみ

8月11日は亡き母の誕生日だった。
戦争で父を亡くしていた母にとっては、8月15日の方がずっと特別な日。
終戦記念日に、遠く離れた祖国を想う。
 
******
 
一昨年、母が他界して、父はそのまま高齢者ホームに残っている。
思い出の品に浸る感情は全て捨てて、本当に必要な物以外はすべて処分する。
 
裏千家の師範を長年続けた母の遺品や、家族が置いていった物。
実家の片付けに、これほどまでに時間を要するとは思わなかった。
 
本棚の隅に隠れていたサルのぬいぐるみ。
母が当時の仕事の研修で、初めて海外に行った時に買ってきてくれた。
 
母が不在の一週間、父が慣れない手つきで料理を作ってくれたけれど、
いかに母の存在が大きいかを痛感したし、とても寂しかったのを覚えている。
 
楽しみにしていたお土産、姉にはバンビのぬいぐるみ、私にはサル。
その瞬間、私は怒って母に突き返した。
 
「なんでお姉ちゃんは可愛いバンビなのに、私はサルなの?
こんなお土産、いらない!」
 
説明のできない感情。ずっと寂しさを我慢していたことが怒りになってしまった。
母はとても淋しそうな顔をして、サルを拾い上げた。
 
「みーちゃんに可愛がってもらえると思ったのに、サルが可哀想ねぇ」
「とにかく、いらない!いらないものは、いらない!」
 
その夜は、半べそかいたまま、夕飯も食べずにむくれていた。
母のお土産話も聞きたかったのに、「ごめんなさい」と言えなかった。
 
翌朝、布団の足元にバンビが置いてあった。
「みーちゃん、取り替えてあげるよ」
姉の優しさに、自分の悪態が恥ずかしくなった。
 
よく見ると、サルもなかなか愛嬌のある顔立ちで、自分を見ているようだった。
そうか、いつもスマートな姉がやっぱりバンビを持つべきなんだ。
 
姉は、一緒に母に謝りに行ってくれた。
「お母さん、ありがとう。大切にします」
 
それ以来、もう半世紀近く、本棚の片隅にいたサルのぬいぐるみ。
前回、最後の片付けに行った時、ついにその子とお別れをしてきた。
 
形あるものはなくなるけれど、心に残ったものはなくならない。
「忙しいという字は心を亡くすと書くけれど、どんなことがあっても心を失わないで」
母がいつも諭してくれた言葉を思い出す。
 
もうあんなことを言ってくれる母はいない。
言葉は永遠に、心の中で生き続ける。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?