見出し画像

橋本関雪の作品は、美術の「出羽守」政権以前の「東洋目線」を想像しつつ観よう。

出羽守とは、とかく海外や異業種の事例を引き合いに出して難癖をつけたがる人を指す、俗な表現である。 海外(外国)の事例と比較して日本はダメだと嘆く人を特に「海外出羽守」と呼ぶこともある。 出羽守という言葉はそもそもは旧国名「出羽国」の国司、すなわち長官の役職名である。

Wikipedia

だいたい月に一度担当している、NHK関西ラジオワイド「関西文化情報」に出演(6月20日)。
今回は橋本関雪展について紹介したのだが、聞き手のアナウンサー氏が「カンセツ的に、ではなく直接的にみたいですね!」と大阪とは思えないサゲサゲのダジャレを連発したので、ちょっと残尿感あるわあ。
気力と下腹部を振り絞って、読み原稿を加筆してアップしておく。
読み原稿と、加筆部分が混在します、すいません。

橋本関雪、ご存知の方は、日本の近代美術に詳しい方かもしれません。
明治16年に神戸に生まれ、昭和20年まで京都で活躍しました。近年、評価がたかまっており、大正・昭和期の京都画壇で活躍した画家、橋本関雪の生誕140年を記念して、京都の3ヶ所で展覧会が同時開催されております。

橋本関雪さん、どんな絵を描かれるのか?

「木蘭」と言う作品があります。
六曲二双、六つに折りたためる屏風を左右二つあわせた大きな画面です。画面左側の人物が、中国の伝説の女性、木蘭です。年老いた父に代わって、男装して戦に出たという中国の古い物語を題材にしています。

まるで映画を見ているような感じがしませんか?(注:スタジオ内無反応)

遠近法は西洋画のようで、どこか映画の一シーンのように空間がドラマチックに広がって見えます。木の幹や馬の筋肉も写実的に描かれています。日本画のようで、西洋画の要素も大いに感じられる。100年前の絵とは思えない新鮮さがありますよね。当時としても新しい絵のスタイルです。

マティスの家に行っても、「出羽守」にははらなかった関雪

関雪さんの、このユニークな絵のスタイルには、3つの背景があるとおもわれます。一つが若い頃から中国の古典文学と絵に親しんでいたこと。
二つ目は京都の日本画の「四条派」に学んだこと。
かつ、三つ目は中国に数十回、ヨーロッパには2度も旅した経験があったんですね。当時としては超教養人、かつハイカラ。なんと1921年には、藤田嗣治とマティスの家に訪問していたそうです。
こうした教養と経験を身につけたことで中国、日本、ヨーロッパの絵画を統合ような世界観が生まれたわけなんですね。

マティスを訪問したのは1921年。当時すでにしてアート界で在感があったフランスの画家を訪問したのであるから、帰国後「フランスでは!」とドヤ顔で「出羽守」になったかと思えば、関雪さんは、全く逆だった。

1924年に刊行した『南画への道程』で、欧州での見聞を南画再評価に活かし、ルノワール、ゴッホ、セザンヌを中国の画家にたとえる議論を展開したという。関雪をふくめて当時の東アジアの文人にとって、あくまで東洋は西洋より優越的であって、西洋美術の新傾向を東洋の美学をもとに理解しようとする不動のスタンスがあった。

3箇所で開催されているこの展覧会。福田美術館と、あとの2ヶ所が、嵯峨嵐山文華館、そして、白沙村荘(はくさそんそう)橋本関雪記念館。関雪さんが画の制作を行っていた3つの画室、茶室、持仏堂などの建造物もあり、平安から鎌倉時代にかけての石像美術品も多く置かれています。
この白沙村荘では、(敷地は10000平方メートル)関雪さんの目線にちょっと近づけるような気がします。

一番大きなアトリエからは国の名勝に指定されている7400平方メートルの池泉回遊式庭園が望めます。アトリエだった部屋からは、池の水面が広がってみえます。今の季節、ハスも咲きます。よくある日本庭園よりもスケールが大きく、雄大さを感じる。「師とするものは支那の自然」という言葉を残した関雪さんの理想がここに表現されいる、そんな気がします。


「出羽守」の長期政権がいまだに続く美術界


近代以降、美術の世界は、西洋の価値観への信仰一辺倒。美術関係者はとりあえず「欧米では」と言っておけば識者のようにエラそうに振る舞えるという「出羽守」の長期政権がいまだに続いている。

「出羽守」はネット内の国粋的な方々から揶揄攻撃の対象になっているが、美術の世界では西洋への憧れを軸に歴史は語られ、美意識は語られ続けている。それが進歩的だと信じている人が未だ多く、「出羽守」に、疑いの目を向けることはむしろタブーだったりする。要は、ネトウヨすらいない「遅れた」世界なのだ。

そんな事情で、関雪さんの、東アジアの一流の芸術家たちとの文化交流の記録も、東洋目線で取り組んだ作品の見どころも、十分に紹介されてきたとは言い難い。私もほとんど知らなかった。今も知らない。

知っていたのは「動物画が得意だった」みたいな断片だった気がする。そして、その動物画にも、ちょっと事情があったようなのだ。

政治的な理由から?動物画に転向

昭和に入りますと、関雪さんは、動物画に取り組みます。これは、中国との政治関係が悪化して、中国の古典にちなんだ作品が、描きづらくなったという事情もあったと思われます。いつの世も、芸術は、平和あってのものですね。

動物画の代表作と言われている「玄猿」(げんえん:テナガザル)を見ますと、毛並みが、リアルに描かれています。もふもふです。毛並みの描写を「毛描き」といいますが、あまりに上手かったので「毛描きの関雪」とよばれたそうです。
そして、表情にもご注目ください。目線の先に何があるのか、気になりませんか?ただ無邪気な動物を描いたのではないことが、表情からわかります。

福田美術館の展示では、このもふもふの描写を手に取るように間近で見られるコーナーもあります。筆先とにじみをつかって緻密に描かれているテクニックをぜひじっくり見てみましょう。

色々上手すぎて、逆にキャラ薄になった?

ある意味埋もれた画家だった関雪。埋もれた原因を「手がけた絵のジャンルが超幅広かったから」と説明する人もいる。若冲なら鶏、円山応挙なら孔雀、という定番が見えないといいますか。でもこれも、本領であった中国要素を封印せざるをえなかった事情があったことを知ると、手がけた絵のジャンルの幅広さの意味はかわってこないだろうか? 

関雪さんの作品ときいて、パッと思い浮かぶイメージがないのは、いろんなものを描いて、どれも上手かったからかもしれません。そんな小さなカテゴリーに収まらない、スケールの大きな画家でありました。

ラジオではこんな締めくくりで無難に語っておいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?