無題

鬱憤を書きつけただけの放言です。一部過激な主張、表現を含みますので、閲覧は自己責任でお願いします。

※苦情は一切受け付けません。気分を害する恐れのある方は、ここでお引き取り願います。





──矢代を幸せにしてあげて

つくづくメディアというのは度し難い。いわゆる “オイシイ” 部分だけを食い荒らし、陳腐な提唱で読者を煽る。マーケティングを謳いつつ視野は狭窄、したり顔で垂れ流すのは浮わついた偏向記事ばかりだ。

随分と居丈高ではないか。身勝手な理想を押しつけ、果たせなければ断罪する。ならば聞きたい。矢代という男、誰かの助けを待つだけか。不遇を断ち切るのさえ他人任せか。百目鬼だけがその責務を負わねばならないのか。

私の答えは否だ。そもそも片翼だけ回復させても意味はない。矢代の幸福が百目鬼の幸福とも限らず、逆もまた然りだ。互いの尺度を測れない以上、ただ闇雲に傅いて成就するものでもない。

矢代は未だ向き合いもせず繕う。そればかりか、とっくに砕けた破片を未練がましく掻き集めようとする。これでは『少しも変わらなくて苛々』されて当然だ。頑なに遠ざけたなら爛れようが荒もうが自業自得、曰くそれが “返ってくる刃物の正体” ではないのか。唯一あの頃と違うのは、自身が “傍観者” でいられなくなったことだろう。

目に見える薄幸は、容易に人の心を打つ。が、過ぎた憐れみは同時に他方への非難も生む。さがとは言え、あまりに不憫ではないか。苦悶に喘ぐのは、何も矢代だけではない。後ろ楯を持たない分、百目鬼はより過酷な渡世を強いられて来た筈だ。にも関わらず、片側のみの幸せありきで熱狂し、矢代が幸せが大団円であるかのように結論づける。これを理不尽と言わずして何と言おう。

百目鬼は自らの意志で退路を断った。そして矢代も今また、敢えて火中の栗を拾おうとする。突き放すのも、意固地になるのも、ひとえに互いの身を案じてことだろう。

この切迫した最中に、甘い感情など抱く余裕はあるまい。しがらみの入り組む中、彼らの望みはただひとつ、“生きて欲しい” に尽きるのではないか。

天羽の叱責ではないが、祈るだけで叶うなら『神社にでも通』えばいい。それでは覚束ないからこそ、模索しながら走り続けるしかないのだ。そんなところにも、死と隣り合わせの悲壮感が漂う。

もはや主従関係は崩れた。袂を分かてばそれぞれに体面もある。光陰人を待たず……途絶えた年月は、想像より遥かに無情なのだと私は思う。

──PTSD(心的外傷後ストレス障害)

作品に触れた当初、漠然とだが矢代にその兆しを感じた。解説によれば、PTSDとはトラウマを引き金とする病だそうだ。

主な特徴としてフラッシュバック、それによる情緒不安(例:突然涙する)、繰り返し悪夢を見る、その他無気力、現実逃避などが挙げられる。克服法は大まかにメモに綴る、人に話す、カウンセリングを受けるとあるが、いずれにせよまずは吐き出すことが第一歩のようだ。そうして鎧を脱ぐ過程で、初めて協力者の存在が活きてくるのだろう。

大人と子供の差はあるにせよ、拉致された仁姫がほぼ平常心で居られるのは、庇護者である父親と屈託のない会話が出来ているからではないか。(37話)

振り返れば

『逃げないでください、かしら』(24話)

とは、今日まで一貫した百目鬼の願いにも思えてくる。矢代はもう、か弱い子供ではない。気概ひとつで道も拓けるし、隔たりも徐々に埋められるだろう。僅かでも糸口があるなら、それをよすがに自ら光を手繰り寄せて欲しい。

──“バカ”

以前は百目鬼の代名詞、と言うより愛称の一つにもなっていた。かねてよりこれが、一部の間で侮蔑的、差別的に用いられるのを目にしてきたが、この点だけはどうにも看過しかねる。

作中の台詞(または作者の発言)には、短所も含めた愛着や親しみが込められ、間違っても見下したり面白半分に貶す意図はない。偶像崇拝も良いが、そこを履き違えてはせっかくの機微も台無しだ。元より物語は、二人の関係性を軸に成り立つ。片方が主で、もう一方が引き立て役では決してないのだ。

扱いを誤れば正反対の印象を与え、受け取り方によっては角が立つ。手軽な表現ゆえの弊害を、自省と共によくよく肝に命じておきたい。

──泥水の中身

さて、“バカ” がつくほど純朴だった百目鬼も、今や『立派な極道』になった。そこに至る道のりは端々の描写でしか量れないが、幾つかの悪事に手を染めるうち、否が応でも “スレて” いかざるを得なかったのだろう。

出所不明の二億と天羽の知った噂、仁姫誘拐の顛末、そして杉本の直感と井波の不敵な捨て台詞……分かっているのはこれだけだが、水面下ではまだまだ火種が燻っているかも知れない。

事を起こす際、多少なりとも部外者の関与があったのではないか。大金を奪うにも、居所を突き止めるにも、勘や本能だけで成し遂げられるとは到底思えないのだ。

とすれば、目ぼしい情報源は掃除屋くらいだが、個人的にはそこに百目鬼の弱点があるような気がする。

内輪の任務ならまだしも、隠密行動となれば相応の人脈は必要だろう。ところが百目鬼は、古巣の伝以外これと言った当てはなさそうなのだ。掃除屋にしても所詮は無頼、いつ何時なんどき寝返るか分からず、恨みを買えばたちまち陥れられる危惧もある。

そこへ今回、新たな人物が加わった。渡りに船となるか、それとも噂通りの情人か。いわくありげな接触が少なからぬ物議を醸している。中でも許しがたいのは、あの密会が “ヌキに行った” などと揶揄されていることだ。

これには心底呆れると同時に、強い不快感を禁じ得ない。要人をもてなす彼女らには一定の矜持がある。女は売っても身体は売らず、更にママともなれば店の経営を一任される立場だ。そんな女性が、易々と性の捌け口に成り下がるとでも思うのか。

よしんばそれが事実だとして、わざわざ吐き捨てる狙いは何だ。迂闊な発言が、百目鬼のみならず相手の女性、果てはご自身の崇める対象まで貶めているのにお気づきか。

井波との繋がりを知った時、百目鬼は真っ先に利害関係を疑った。それが即ち、狡く強かに生き抜く術と心得たからだろう。

或いはかの女性も同様なら、双方納得ずくの取引ということになる。肉体関係はいわばその道具、俗な言い方をすれば百目鬼は “男妾” だ。

あくまで極論だが、望む世界に留まるなら、それも吝かではないだろう。まして百目鬼が身を置く組は、“ウチ” であって “ウチ” でないのだ。稀少な知己を頼ったとて、不浄呼ばわりされる謂れはない。

一見すると好意に漬け込んだと言えなくもないが、それはそれとして、肝心なのは彼女が刺客か同朋かだ。あのひとコマに関しては、誤解を解いて欲しいとも思わない。相手もさるもの、百目鬼より一枚も二枚も上手かも知れないのだ。その落ち着きと手腕に、むしろささやかな期待を寄せずにはいられない。